翌日の早朝。まだ昇りきらぬ朝日が東雲しののめを藤色に染める頃、止利は厩戸の屋敷を訪ねた。こんな朝早くに失礼だとは思ったが、どうしても話してみたい人がいたのだ。

 門番に訳を話して中へ入れば、屋敷の裏から風切り音が聞こえてくる。万物を切り裂くような鋭い振動は、まるで鷹の羽音のような響きを持っていた。

「おはよう······ございます」

 背中に恐る恐る声をかけると、音に違わぬ鋭い瞳がこちらを見返した。朝日に映える黒々としたシルエット。鍛錬をしていたのか上着は着ておらず、筋肉の盛り上がりがありありと目に飛び込んでくる。止利よりも一回りも二回りも大きな身体······やはり巌のような男だと思った。


 迹見赤檮とみのいちい──彦人の元から厩戸の元へと引き渡された舎人とねりだ。彦人の元へいる時は犬のような素振りも見せていたが、やはり面と向かうと圧が襲ってくる。鷹のような無表情な強面。止利は蛇に睨まれた蛙のようにビクビクとしながらも、「あの、お話、聞いてもいいですか?」と精一杯声を絞り出した。

「······誰だっけお前」

 きょとんと首を傾げた赤檮がぼやく。顔をうかがうように見上げれば、困ったように頭をかいている。気まずいことをした子供のようにも見えて、恐怖が霧散した。

 自分の身分と名を告げた後、彦人の元で会った折の話をすれば、「······ああ! あれか! 多須奈たすな殿の息子の」とやっと思い出したらしい。厩戸の周りは記憶力の良い人ばかりが揃っていたからか、身分相応の対応をされたのがむしろ珍しく思えてしまった。

「で? 鞍作部がなんだ? 俺馬乗らないぞ」

 単純でどこかズレた言葉。世間知らずとも言える素直な言葉に、止利は「あ、いえ馬具の提供とかではなくてですね」と苦笑する。

「少々話をしてみたいなと思いまして······その、彦人さまのことなど······」

 その名に赤檮がピンと背筋を伸ばす。頭の上に立てられた耳が見えた気がして、彼を「大きな犬」と例えていた彦人の声が蘇った。

「彦人さまがどうかしたのか?」

「あ、いえ······少し気になることがあるのですが、皇子さま御本人に聞くのも畏れ多く······」

 止利がしどろもどろになっていると、赤檮はきょとんと首を傾げる。じろじろとした視線は注がれるものの、彼から口を開こうとはしないようだった。

「その······彦人さまは何故赤檮さんを手放されたのですか?」

 赤檮の目が鋭くなった。こちらを警戒するかのような獣に近い瞳。消えたはずの恐怖が再び蘇り、止利はまずい所に触れてしまっただろうかと血の気を引かせる。

「お前、物部に内通してるわけじゃないだろうな」

 足元から空気を震わすような低い音がした。胸の奥にあった不安が釣られてぐわりと捻り出される。まるで縄張りを巡って牽制する獣のようだった。自分の居場所を損なわぬための防御、威嚇。それが真正面からぶつかり、目の前の男がやはり怖くなった。

 しかし言われてみればそうだ。自分は蘇我方の専属仏師になったわけでもない。各豪族に率いられる品部だからこそ、物部に関わっていないなどと証明する術はないのだ。

「いえっ、僕は物部のことは分かりません······。厩戸皇子さまが初めてなのです、尊い御方に自分の鞍を渡したのは」

 怖気付いた中でも精一杯にそう答えた。それが、自分が今答えられることの全てである。正直まだ疑われるかと思っていた。自分よりもずっと皇子という人間の傍にいたであろう赤檮が、こんな主観的で幼稚な答えで納得するはずがない。


 しかし一向に声がかからないのでそっと顔を上げた。そこにあったのは、意外にも柔らかさを取り戻した赤檮の惚け顔だった。













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