中立
中立を願った
「君は臆病だからね」
歯に衣着せぬ言い回し。彦人は肩をすくめて苦笑していた。泊瀬部が目を丸くしたのは言うまでもない。止利とてここまではっきりと物を述べる人間は初めて見た。なんという皇子なのだろう。いよいよ彦人のことが分からなくなる。彼は優しい人だと思っていたが、こうも赤裸々な言葉を吐かれると尻込みしてしまう自分がいる。常に浮かべられた緩やかな微笑も、合わせて柔く下がる眉も、全てが彼の実像を曖昧にさせた。ぼやけるのだ、その言葉の全てが。これだけ明白な言葉をもってしても······いや、その言葉があまりにも無慈悲だからこそ、彼の中の親愛というものが掴めなくなるのだ。
「泊瀬部くんは弱いからさ、板挟みには向いてないよ。物部も蘇我も殺せると思えるようになったらおいで。そうしたら歓迎するよ」
泊瀬部はとうとう声さえも奪われてしまった。ただ全ての感情を抜き取られたかのように唇を震わせて彦人を見つめている。その瞳から一筋の涙が零れ落ちたと同時にくしゃりと眉が歪んだ。彼が縋った藁はあまりにも柔く、冷たかった。
「彦人さまは······殺せるのですか?」
無意識に言葉が漏れていた。自分でも突飛な言葉だったと思う。しかし止利は彦人が気になったのだ。何故彼は中立に立つのか、何故
彦人は少し不意をつかれたように止利を見る。しかし直ぐに柔らかく相好を崩すと、「さあね」と首を傾げてみせた。
「殺せるかどうかなんてその時になってみないと分からないさ。でも、殺すのも手だとは思うよ。だって何もせずに死にたくないじゃない」
彦人の言葉は最もだった。しかしそれがあまりにも恐ろしい考えにみえて、止利は萎縮したように口を閉じる。目の前のこの皇子が人を殺す時が来るのだろうか。そんな未来など考えたくはない。しかし
そう思うと、彦人が剣を握る未来も見えるような気がして背筋に寒い風が吹く。そうだ、今の飛鳥はこれが現実なのだ。下手をすれば明日にでも物部と蘇我がぶつかり合うかもしれない。そうすればきっと多くの死者が出る。勝敗に拘わらず多くの死者が。
ふと厩戸のことが心配になってきた。彼は殺されないだろうか。物を作ることにしか能がない自分を快く受け入れてくれた厩戸。いつからか、あの落ち着いた板の間が心の拠り所になっていた。刀自古に追い出された時に初めて気がついたのだ。あそこが甘樫丘とはまた違う、新たな居場所になりつつあることに······。
横で俯いていた泊瀬部が小さく身じろいだ。彼は彦人を拠り所にしようとした。しかしそれも遂に潰えた。物部にゆくか、蘇我にゆくか、居場所の選択を迫られている。優柔不断にみえる泊瀬部にとって、決断のために思い悩むことは心を抉られるかのような痛みなのだろう。彼は息苦しさに耐えるように歪な息を吸っていたが、しばらくして「無理です」と呟いた。
「僕には殺せません······怖いことはしたくない」
彼らしい答えだと思った。未だどちらへ進むかは決められていないが、それでも中立の道は諦めたのだろう。彦人はそれを穏やかに微笑んだまま見つめていたが、たった一言「そうかい」と言葉を零す。
「君は他の皇子たちが好きかい? 難波や春日や厩戸、竹田」
「······はい」
「なら蘇我へ行くといい。彼らと戦いたかったら物部でもいいけどね」
泊瀬部がそろりと顔を上げる。まるで戦が始まると公言したかのような台詞だった。目に映った彦人の瞳はやはりどこか無機質に見える。泊瀬部とは一定の距離を保っているようで、それでいてこちらへ踏み込むような素振りも見せるのだ。やはり分からない、彦人の真意は。遠巻きに聞こえる木々のさざめきが、より一層彼をミステリアスにみせている気がした。
泊瀬部は迷うように黙り込んだ。しかし小さく呻くと、一度自分を落ち着けるかのように目を閉じる。強く伏せられた瞼の奥には誰の顔が思い浮かんでいるのだろう。かなりの時間が流れたが、止利が見守る中で泊瀬部はパチリと目を開けた。そこに見えたのはまだ尾を引く迷いの痕と、それでも絞り出した一粒の勇気であった。
「蘇我の······元へ行きます」
掠れた声がぽろりと落ちる。彦人はやはり一言「そうかい」と微笑んだ。しかしそこにあるのは無機質な頷きではなく、兄が弟を見るかのような愛おしい光であった。
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