泊瀬部


 ちまちまと白湯を啜る泊瀬部はつせべは怯えたように萎縮していた。それを横目に、彦人が部屋に入ってくる。

「ごめんねぇ、今何もお菓子ないんだよねぇ。僕も年がら年中ここにいるわけじゃないからさ」

 肩を竦めた彦人に、止利は「いえ、お気遣いありがとうございます」と慌てて手を前に出す。彦人は柔らかな髪を揺らすようにくすくす笑うと、「で、泊瀬部くんはなんのお話しに来たのかな」と目を伏せた。

「あ、その······本当に、勝手な相談で······」

 声を震わせた泊瀬部は臆病な子犬のようだった。元々流されやすい性格だとは聞いていたが、堂々としている他の皇子たちに比べると確かに気が弱いように見える。

 しかし彦人は特に急かすこともせず、「別にいいよ、ゆっくりで」と呑気に白湯を飲んでいる。彦人のそんなところに引き寄せられたのだろう。泊瀬部は、「えっと、物部と、蘇我について······」と訥々と語り始めた。

「僕、元々物部に近しくて······兄上が、守屋と仲がいいから······。それで、僕も兄上と一緒に物部につこうと思ってたけど、なんだか怖くて。兄上が殺された後、守屋が僕のとこに来て、僕を大王にって言い始めて。でもっ、僕別に大王になんかなりたくないし、それに兄上みたいに蘇我に殺されたら嫌だし、そのまま逃げてきちゃったんです。だから、今度は物部に殺されるんじゃないかって······」

 まとまらない言葉を揺れる声にのせて吐き出した泊瀬部はそこで一度息をついた。そのまま言葉を続けることも出来ずわなわなと震えている。

 止利は心が傷んだ。常に命が左右される皇子たちに同情してしまったのかもしれない。厩戸と仲の良い馬子の姿ばかりを見てきたが、本来皇子と豪族というのはこのような間柄なのだろう。ただ、厩戸と馬子の仲が良いだけなのだ。現に泊瀬部は豪族たちの視線の中で必死に命を繋いでいる。彦人も、蘇我と物部の狭間で板挟みのまま生きている。そんな皇子たちの姿にツンと鼻の頭が痛くなった。

「うん、怖かったね。よく話してくれた」

 彦人はサラリとした衣擦れを残して上座からおりた。泊瀬部の元へ近寄ると、小さな背中を優しく袖で包み込む。

 柔らかな草花の香りにつられたのだろうか。泊瀬部は、ぽろぽろと涙を流すと震える唇を小さく開く。

「······てください」

「ん?」

 上手く聞き取れなかったのか、彦人が微笑みの中でこてりと首を傾げる。泊瀬部は「僕もここに居させてください」と顔を手で覆った。

「もう、物部にも蘇我にもつきたくありません。僕も、ここで貴方と一緒に静かに暮らしていたい。片方選ぶなんてしたくない」

 彦人が目を丸くした。止利も同じように瞬きをする。

 泊瀬部は中立を願った。物部にも蘇我にも囚われない彦人に望みをかけてきたのだろう。ずっと蚊の鳴くような声をしていた泊瀬部が、初めてはっきりと言葉を紡いだ瞬間だった。

 しかし彦人は寂しそうに眉を寄せた。そして、口元に柔らかな笑みを浮かべると、「ダメだよ、泊瀬部くん」と首を横に振る。

「中立にいても何も変わらないよ。今まで通り、物部にも蘇我にも怯えることになる」

 泊瀬部が驚いて顔を上げた。止利も予想してなかった彦人の反応に恐る恐るその瞳を見つめる。

 そこにあった彦人の表情は、子を諭す母にも似たうら寂しい笑みだけであった。しかしながら、はっきりと綴られた無慈悲な言葉は、やはり彦人をどこか不気味で素っ気なく見せているような気がした。










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