気配


 用明天皇二年(587年)六月、穴穂部皇子あなほべのみこが殺された。殺したのは大臣おおおみ蘇我馬子そがのうまこが率いる軍勢であった。

 これは敏達帝の妃である額田部皇女ぬかたべのひめみこも了承していたこと。彼女が蘇我側に立ったことを示すには十分すぎるものだった。

 穴穂部は大連おおむらじ物部守屋もののべのもりやと手を組んで皇位を狙っていたが、犯されかけた額田部からすれば、穴穂部を皇位につけるなど以ての外だったのだろう。それに伴い、自らの血縁であり、物部と敵対する蘇我側についたことは皆が納得せざるを得なかった。


 守屋は歯噛みした。物部方に立つ皇子はいよいよ居なくなった。穴穂部と親しく、物部に傾き始めていた宅部皇子やかべのみこも、またこのとき殺されたのだ。

 もしやとは思っていたが、あの馬子がここまで動くとは。それゆえ、守屋が次に目くじらを立てたのは穴穂部の弟・泊瀬部皇子はつせべのみこであった。

 彼は系譜で言えば物部が推していた血筋である。まだ蘇我との繋がりも弱い。守屋はそこに目をつけた。それゆえ次は泊瀬部を旗印に······と、考えた。


 ちょうど、その頃だった。父の元へと彫刻の指南を受けに通っていた止利が泊瀬部の姿を見かけたのは。

「あれ······」

 父に頼まれ、彦人の別荘へ鞍を届けに行ったところで声をかけられた。どこかで見かけたような顔をした青年がいる。まさに泊瀬部皇子であった。なんでも彼も彦人に会いに来たらしい。

 二人で彦人の元へ向かうと、快く出迎えてくれた。珍しい組み合わせだと笑う彦人に、泊瀬部が少し気まずそうに頬を染める。

「止利くんは鞍のお届けだね。多須奈たすなから聞いたよ、倅の方が腕がいいと笑っていた。とりあえず舎人とねりに預かってもらおうかな」

 彦人に呼ばれて一人の舎人が出てくる。赤檮いちいに比べると武闘派ではないように見えた。大方、厩戸のところで言う調子麻呂と似た立ち位置なのだろう。

 止利は彼に鞍を引き渡して帰ろうとした。しかし彦人が「疲れてない? 少し休んでいきなよ」とにこにこ声をかけてくる。

「えっと······」

 思わず口を引き攣らせる。どうするのが正解なのだろう。厩戸の元では誘われて屋敷にあがることが多かったが、それは彼の性格をある程度知っていて信頼したからなのである。

 一方、彦人の言葉がただのお世辞という可能性も有り得るのだ。どうしたものかともだもだしていると、「あ、あの······」と横から声がした。そちらを見れば泊瀬部が恥ずかしそうに視線を逸らし、「君さ、厩戸のとこにいた子だよね······」と蚊の鳴くような声で問いかけてきた。

「僕の話聞いてってくれないかな。厩戸の意見聞きたいけどなんだか声掛けづらくて······」

 きょとんと瞬きをした先で、「忙しいならいいや、ごめんね」と泊瀬部が両手を前に出す。熊に怯える兎のような姿に、止利は「はえ?」と素っ頓狂な声を上げた。

「えっと······僕は構いませんが、むしろいいのですか? 僕が厩戸皇子さまの代わりに、なんて······」

「いいんだよ。厩戸は大臣と仲良いし、なんだか感情読めなくて怖いんだよね」

 まあその意見も分からなくはない。厩戸に出会ったばかりの頃はそう思っていた。しかし馬子や厩戸が関わるような話とは一体何なのだろうか。

 助けを求めるように彦人を見れば、「まあいいんじゃない? 泊瀬部くんがそう言うなら」とにこにこ眦を下げる。

 これはまた奇妙なことになってしまった。お日様のように微笑む彦人と子犬のように不安そうな泊瀬部を交互に見ながら、うーんと心の中で首を傾げた。








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