水派


彦人皇子ひこひとのみこさまは山奥に住んでおられるのですか?」

 慣れた足取りで山を登る彦人に、止利はたまらず声をかけた。どんどんと深くなる緑にどこか里が恋しくなる。

 しかし彦人は寂しそうな素振りも見せない。止利の呼び掛けに振り返ると、「いいや、宮は下にあるんだ」と呑気に笑った。

「宮は里の方にあるんだけれど、こっちに小さな館を構えたんだ。宮というほどもない秘密基地だよ」

 随分と変わった皇子だ。しかし秘密基地と言われるとどこか心がうずく。自分もまだまだ子供なのかもしれないと思った。


 やがて木々の間に建物が見えてくる。秘密基地の割には立派だ。ひっそりと佇むそれは、山神の館のような風合いだった。

赤檮いちい、この間 胡桃くるみが取れただろう。振舞ってやりなさいな」

 奥の間へと消える赤檮を目で追いながら、随分忠順なのだなと思う。赤檮は一言も喋らなかったが、大きな背中には彦人への信頼のようなものがありありと浮かんでいた。

「彼を見ていると大きな犬を思い出すね。いつもそうだけど最近は特にそう」

 突然彦人がそんなことを言い出す。

「こんな主人にも忠実なんだ。図体は熊のようだけど、ずっと見ていると耳としっぽが見えてくるんだよ」

 彦人は本当に楽しそうだった。落ち着いているものの、厩戸とはどこか違う。明るいが難波なにわともまた違う。なんと言えばいいのだろう。厩戸が冬の朝日、難波が真夏の太陽だとすれば、彦人は秋の夕日かもしれない。

 確かに年長らしい落ち着きはあるものの、表情や言葉の色には子供のような純粋さも混じっている。河勝が「子供っぽい」と言っていた理由が少しわかったような気がした。

 そのうち赤檮が胡桃を持ってくる。淡白な実が彦人によく似合っていた。

「君、お名前はなんだっけ」

「止利と申します」

「止利くんか。いい名前だね。きっと自由に羽ばたける」

 彦人の笑みは寂しげだった。思い返せば、この皇子は不自由の身なのである。蘇我と物部の板挟みとなった皇子。心が縮こまる音がした。

「蘇我の大臣や厩戸は何か言っているかい、赤檮に関して。少し心配なんだ、彼は無愛想だから」

 くすくすと肩を揺らす彦人に赤檮が小さく口を曲げた。これまでの態度からは想像も出来なかった表情に、止利はきょとんと手を止める。不服そうな顔は妙にあどけない。掴みきれなかった胡桃がぽろりと落ちた。

「赤檮はねぇ、人と関わるのが苦手なんだ。でも悪い子じゃない。それは僕が証明するよ。勝海かつみを斬ったからみんなに怖がられているだろうね。じゃなきゃ僕のところに足繁く通ったりしないよ。せっかく離れようと言ったのにさ、よほど山が恋しい狼に見える」

 一人でぺらぺらと言葉が紡がれた。止利が瞬きをすると、不服そうに赤く染まった赤檮の顔がまたたいた。意外と似合う照れ顔に心の底から拍子抜けしてしまう。彦人の前だと本当に犬のような男だった。背後にハタハタと揺れるしっぽが見えて思わず目を擦る。

「まぁ仲良くしておくれよ。赤檮は自慢の舎人とねりなんだ」

 では何故手放したのだろう。首をひねりつつ胡桃を噛み砕いた。

 勝海を殺した赤檮を手放すことで、中立の立場を守ろうとしたのだろうか。しかしどうも彦人の心中はよく分からない。赤檮への親愛が見えるようで、言葉はふわふわと重さがない。

 そもそも二人の関係も気になるところだ。河勝でさえ詳しくないという赤檮の出自、そして上手く感情が読み取れない彦人の声音。それがもやもやと心に影を落とす。

 淡白な果実を飲み込むと、止利はそろりと視線を上げた。しかしにこやかに笑う彦人に、尋ねるほどの勇気はなかった。









  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る