父子
緑が映える山の中。止利は古びた小屋の片隅で顔を上げた。
そこには一人の男がいる。止利によく似た柔らかな髪を後頭部で一本に結い、どこか深みのある煤竹の瞳をゆっくりとこちらに向けた。
──ああ、これが自分の父か。
随分と奇妙な気持ちになった。幼い頃に見たきり一度も会っていない。それが己の父であり、顔も声も覚えていなかった。しかしこうして対面すると、どこか懐かしい心地さえする。自分は確かにこの顔を知っていた。この顔に親しみを抱いていた。そんな感情が湧き起こり、ふつふつと目頭が熱くなった。どうしてだろう。今までは会わずとも寂しくなかったのに。
「よく来たな」
彼は一言呟いた。暗がりに低く響く、それでいて柔らかい、そんな不思議な声だった。彼は寡黙な男だ。それ以上言葉を続けることはない。しかし、タコだらけの右手をあげると止利の頭を柔く撫でた。手がさわさわと髪を滑る度に止利は幼くなった心地がした。まだ共に居たあの頃に戻ったかのような、そんなおかしな感覚だった。
「父、上は······ずっとここにおられたのですか?」
少し迷ってからそう言った。
「そうだ。ここで出家もせずに、暇に任せて木を彫っていた」
多須奈は止利から手を離すと、「無責任な父だろう」と寂しげに眉を下げる。止利は謝罪のような声に、ふるふると横に首を振った。
「父上の、そんな所に惚れたのだと、母上はそう言っておりました。私も無責任な人間ですので、きっと父上と同じ道を選ぶでしょう」
多須奈は少々驚いたようであった。しかし止利の言葉に頷くことも否定することもしないまま、「そうか······苦労をかけたな」とだけ言って口元をゆるめる。
「お前は今どこで何をしているんだ?」
「今はまだ
多須奈は驚いたようだった。しかし余計な言葉をかけることはなく、再び「そうか」とだけ返して何かゴソゴソと自分の横にあった木箱をまさぐった。一体何をしているのだろう。木箱の中身に気を取られていると、多須奈がもう一度頭を撫でてくる。その温もりが遠のくやいなや、彼は木箱にあった手をこちらへ差し出した。
「仏師の道は簡単なものじゃない。しかしお前がそちらを選ぶのならばこれを使いなさい」
彼の手に握られていたのは一本の
「いいのですか?」
少し迷いながらも受け取った。初めて彼から贈り物をされた気がする。小さく触れた父の手は、幼い頃よりも皺が増えたがそれでも大きく温かかった。
「何かあれば気軽に訪ねてきなさい。しかし嫌ならばこんな父など捨ておいてもよい。お前が必要だと思った時に、会いにきてくれればそれでいい」
相変わらず自由な父だ。しかしやはり血は繋がっているのだろう。止利はそんな父の生き方がどこか羨ましくも思った。
山の中腹にある小屋を出て、思いっきり伸びをした。夏も深まった飛鳥の山は、青々と木の葉を揺らしている。そんな夏風に誘われるように、止利はゆっくりと山をおりる。
しかし麓の近くまで来たところで、どこからかケーンと
目を凝らした止利であったが、顔を見てあっと思った。大きな図体と強面の顔。つい最近厩戸の新たな舎人となった
「赤檮、また来たのかい? 懲りないねえ」
突然背後から声が飛ぶ。雉の声につられたのか、一人の男が山を下りてきた。質の良い服に似合わぬ慣れた足取り。それは止利と目が会った瞬間ぴたりと止まった。
「あれ? 君······」
男が小さく首を傾げる。止利をきょとんと見つめる瞳の持ち主は、いつか一度だけ見た
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