父
「なんだか物騒な世の中になりましたなぁ」
夏の日差しが遮られた板の間で、
しかしながら、ここはいつ来ても穏やかだった。飛鳥のさらに北にある厩戸の屋敷は、ギラギラとした夏の太陽をも忘れさせる清涼な風の中にある。
吹き込むそれに髪を揺らすと厩戸は閉じていた瞼を持ち上げた。愉快そうな河勝に対し、「貴方は相変わらずですね」と水紋のような声を漏らす。
「父上が病に苦しむのもこの現状が原因でしょう。私にだって少なからず分かりますとも。人が争えば、自ずと心が疲れますから」
「確かにそれはあるでしょうなぁ。現に、大王のお加減が治らぬというので仏像が献上されることになったとか」
河勝がふいにこちらをみた。揶揄うような視線がぶつかる。意図が分からず困惑する止利を横目に、彼はにいっと口の端を上げた。
「たまたま大王の御前で一緒になったのですが、大王のために出家して寺を建てると。そこで修行をしながら仏像を献上したいと申しておりましたよ」
「それはどなたが?」
「
河勝の声が鼓膜を震わせる。その瞬間、止利は思わず顔を上げていた。
タスナ。多須奈。一体何年ぶりの響きだろう。
顔を上げた止利の目に、真っ直ぐにこちらを見ていた河勝の光が映りこんだ。それはまとわりつくような愉悦に満ちて、止利の瞳を侵食する。
「
厩戸が目を丸くした。
そう、鞍部多須奈は止利の父だった。
しかし顔も声ももう覚えていない。止利が四つになる頃にどこかへ行ってしまった。なぜ突然居なくなったのか。それも分からぬまま父の姿を見なくなった。
しかし、元から一緒に過ごすことが少なかった間柄である。父が突然いなくなったとて、幼い止利はさほど疑問を抱かなかった。懐かしむことも、思い出すこともなかった。昔から一人が好きな男だったのだ。
それに、寂しいときには母や従兄弟の
そんなことが走馬灯のように頭を巡り、すぐに現実に引き戻される。こちらを見つめる河勝の目が、「止利さんのお父様ですか」という厩戸の声に寄せられた。
「なので止利くんが彫刻をしていると聞いた時になるほどと思ったんですよ。やはり顔は合わせずとも血は巡るのだな、と」
聞こえ始めたひぐらしの中で止利はそっと右手を開く。淡い紅の手の平に父の面影が重なった。
まさか、父が仏師だったなんて。
突然感じた家族の存在にふわりとした浮遊感をおぼえた。まるで夢の中で夢を見ているような、そんな現実離れした感覚が身体を覆う。
一度会ってみようか。父という存在に。そんなことを考えて、止利は桃色の右手を柔く握った。
厩戸の父、
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