中臣勝海
「斬られた!
翌年の夏四月のことだった。人から人へと何度も繰り返される言葉。それが宮中に溢れた時、馬子は思わず眉をしかめた。
斬られた。中臣勝海が。それが頭にこだまして、ようやく事の顛末を知る。
発端は勝海の動きであった。勝海は神祇を司る中臣氏の長で、物部守屋の右腕にあたる。呪術に長けた彼が、言うことを聞かない
戦をするのにも大義名分がいるのだが、その際、神の血を引く皇子というものは良い旗印になる。しかし、飛鳥を担う皇子たちの多くは蘇我方に付いていた。その点で味方の皇子が少ない物部は非常に心許ない。穴を埋められる可能性があるのは、もはや中立にたつ彦人の他にいなかった。
だから守屋との話し合いの結果、勝海は彦人に頭を下げに行ったらしい。おおよそ味方にでもなって欲しかったのだろう。自分を一度は呪った相手を見て、あの穏やかで心の読めない彦人が何を思ったのかは分からない。どう返したのかも分からない。しかし、彦人の宮を退出した際、勝海は彼の舎人に殺されたのだという。
話を聞いた馬子は、すぐさま
「
彼は彦人の舎人たちに鋭い瞳を送っていた。この場にはいないようだが、どうやら赤檮という舎人が勝海を切ったらしい。しかし、縮み上がってはいるものの、彦人の舎人たちも引く様子はない。
「元々主を呪ったのはそちらの勝海殿でありましょう。赤檮の首を差し出す訳には参りませぬ」
舎人の一人が対抗しようと声を張る。しかしあの守屋が怯むはずもなかった。我が右腕を失った彼はふつふつと燃える炎を目に宿す。
「ならばお前らが首を差し出すか?」
舎人たちの身体が強ばった。まるで地を這う虎の咆哮のようであった。すっかり血の気を引かせている様子を見て、やはり守屋という男は物部の棟梁たる人物なのだと実感した。この地を鷲掴みにする彼の根は、そう簡単に折れるようなものではない。それを身体の芯で感じ取って、馬子は前に進み出た。
「ここは大王の御座す宮でありまする。そのような発言は慎まれよ」
身体が勝手に押し出したかのような言葉であった。守屋と対等に歩めるのは自分しかいない。不思議とそんな感情が心を埋める。守屋の目がこちらを捕らえた。そこにかつての希望の光は宿っていない。それでも馬子は寂しくなかった。
「大臣。これは
守屋は刺すような瞳で言った。馬子は何か棘のような痛みを感じたが、それでも視線を逸らすことは無かった。
「構わぬ」
ふと、空に光が走る。一陣の風が静寂を運んだ。守屋はゆっくりと目を閉じた。過ぎ去った春を惜しむような、ほんのわずかな後悔であった。
「ならいい」
守屋はそうとだけ吐いて去った。馬子も彦人の舎人たちに礼をすると、何も言わずに背を向ける。
それを見つめていたのは、父帝の見舞いに来た厩戸だけであった。
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