第六章「迹見赤檮」

三輪逆


 数日後、穴穂部皇子あなほべのみこはついに三輪逆みわのさかうを討たんと決した。討伐を命じられた守屋はさかうの館を囲い、雨のような矢を放った。逆は一旦本拠地の三輪山、次いで海柘榴市宮つばきちのみやに逃れたものの、一族の密告によって居場所がバレてしまう。

 穴穂部はそこへ守屋の軍勢を派遣した。「逆とその子供を斬れ」と命じた穴穂部に、守屋が逆らうことは無かった。


「皇子! 穴穂部皇子さま!」

 穴穂部の宮に切羽詰まった声が響いた。転がり込んできたのは、事の次第を聞いた馬子である。

「御自ら討伐に向かうのはお止めくださいませ」

 馬子は必死に訴えかけた。この時、守屋の戦況を聞いた穴穂部は、自ら戦場に出向こうとしていた。現に穴穂部は身支度も整えて宮の門を出ており、馬子が間一髪止めに入った具合である。

 ──穴穂部には従うが逆は斬るな。

 馬子の心の内を占めるのは河勝の一言だけであった。逆は死んだも同然だろう。それでも穴穂部のことだけは引き止めておきたい······いや、。馬子はその一心でここまで馬を走らせてきた。

「神聖な御方は刑を受ける人間に近寄らぬ方が良いのです。お願いですからどうか······」

 穴穂部は馬子の方をちらりと見たが、返事をすることは無かった。多くの護衛と兵を引連れ、馬子など見えていないかのように立ち去っていく。


「······これで良いか? 河勝」

 隊列が見えなくなったあと、静かな夜道に馬子の言葉が落ちた。吸い寄せられるかのように、背後の闇から男が現れる。夜に溶けていたかのようなその男──河勝は、馬子に向けてにやりとした笑みを返した。

「よろしいでしょう。これで穴穂部皇子さまが逆賊になっても大臣おおおみの身は保たれます」

「······皇子を逆賊呼ばわりするな」

 馬子は顔を顰めて振り返り、河勝の薄い瞳を見つめる。細い瞼の奥に踊る筋。それは闇の中でも不思議と光を持って見えた。一つため息をつくと、「とりあえず守屋をどうにかせねば」と馬子は踵を返す。

「私は大臣に支えていただけた御恩を忘れぬつもりでございます」

 去りゆく馬子の背に声が降った。唐突な言葉からはカラカラと愉快な音がした。

 この男をどこまで信じていいのやら。馬子は呆れたように歩みを戻す。まだどこか迷いのある背中を、河勝だけが楽しげに見送った。


 その夜、敏達帝の寵臣・三輪逆は滅びた。逆討伐の報告をした守屋に馬子は詰め寄ったが、「お前になど分からずとも良い」と一蹴された。守屋の瞳には、もうあの悲しげな光は残っていなかった。


 それ以降、犯されかけた上、亡き夫の寵臣を奪われた額田部皇女ぬかたべのひめみこから穴穂部即位を仄めかすような言葉が零れることはなかった。彼女は穴穂部を擁護した守屋を不安の種と思う一方、逆討伐を止めようとした馬子の方へは決して冷たい視線を向けることはなかった。











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