第五・五章

曼珠沙華


 数日後、守屋もりや馬子うまこは宮中の一室にいた。再び穴穂部皇子あなほべのみこに招集をかけられたのである。

 互いがどう動くのか見極めたいところであるが、穴穂部が未だ動かぬ二人に痺れを切らしたようであった。静かに控える両者に対し、穴穂部は地に足がつかないままに口火を切る。

大臣おおおみ大連おおむらじ三輪逆みわのさかうをどう思われる」

 それに返答はなかった。

「私は七度も呼んだのだ。しかし奴は門を開けなかった」

 穴穂部はどこか心配性なところがある。全く動く様子のない二人を見て、彼はくるくるとその場をうろつき始めた。不安症なところは弟の泊瀬部はつせべとよく似ている。まるで雷におののく犬のようだ。馬子はそんな呑気なことを考えたが、それも緊張からくる現実逃避に過ぎなかった。

「彼が先の大王の葬儀にてなんと言ったかお忘れか? 奴は朝廷のことは私がお守りしますと申した。しかし宮には沢山の皇子がいる。いましら家臣もいる。なのに自分一人で朝廷を守るなどと無礼ではないか?」

 随分と昔の話を掘り出したものだ。馬子はこじつけにすぎぬと思ったものの、自分も葬儀にて守屋と口論をした手前、穴穂部の発言を諌めることが出来なかった。ちらりとその守屋を見れば、相変わらずの仏頂面で口を閉ざしている。元から感情表現に乏しい寡黙な男だ。ここで発言するとは思えなかった。

 しかし二人の空気感にも気が回らぬのか、穴穂部は一人でつらつらと口を開いている。何かしら逆の悪業を並べているようだが、正直馬子は聞いていなかった。

 ── 一度穴穂部皇子さまに従ってみては

 河勝に言われた言葉だけが頭に響く。穴穂部には従う。しかし逆は斬るな。それを達成するにはどうすればいいのだ。

 そもそも守屋はどう動く。これから蘇我と物部はどうなる。ここで選択を間違えれば一気に戦へ突き進むことになる。それだけの緊張が今の飛鳥にはあった。

 正直、守屋と戦などしたくない。確かに嫌味なことを言うが根は優しいのだ。特に物部を背負う前は誠実だった。きっと守屋からすれば自分もそう見えるのだろう。彼が鈍臭い自分を認めてくれているのかは分からないが、道さえ間違えなければ共に歩める気がするのだ。この男となら手を組める。かつてのような守屋であれば······。

「私は逆を斬りたい」

 ふと強い意志を感じて顔を上げる。そこには真剣な顔をした穴穂部がいた。額田部さえ落とすことが出来れば穴穂部も大王になれるだろう。だから力ずくにでも額田部と契りを結ぼうとした。それだけの事をしたのだ。彼の意志は松の大木たいぼくのように揺るぎなかった。彼の燃え盛る野心が、確固たる自信が、その瞳にメラメラと滾ってみえた。

「仰せのままに」

 隣から静かな声がする。守屋が頭を垂れて穴穂部に平伏していた。そうか、そう動くのか。馬子は小さく息をつくと、同じように頭を垂れた。同じ言葉をそのままに、舌に乗せて転がした。

 穴穂部はそれで満足したようだ。こちらに逆討伐を依頼して去っていく。

 その時だ、突然横から声がかかったのは。

「馬子」

 身体の芯を震わすような低い響きに驚いてそちらを見た。すると守屋が静かにこちらを見下ろしている。

 今、この男は自分の名を呼んだのか?

 馬子は狐にでも包まれたかのような顔で守屋を見返した。何年ぶりの話だろう。この男に名を呼ばれたのは。

 ここ数年、自分はずっと「大臣」だった。彼もまた「大連」だった。いつからか、互いの名で呼び合うことなど無くなっていた。その事にすら、今名前を呼ばれるまで気づかなかった。それだけ彼と対面することがなかったのだろうか。大臣と大連ではなく、「蘇我馬子」と「物部守屋」として。

 守屋は困惑する馬子の顔など気にしていないらしく、切れ長な瞳でこちらを見下ろす。しばらく静寂が続いたあと、糸を切るように息をついた。

「分からぬか」

「······は?」

 突然の言葉に馬子は間抜けな声を上げた。分からぬかとはなんだ。その意図が分からぬのだが。いつも寡黙で仏頂面なこの男がいつにも増して読めず、馬子は何も言えなかった。

 しかし、この男の不器用さには慣れているつもりだ。いくら真意が読めずとも、彼の瞳に灯った微かな希望だけは確かに受け取った。かつて、寺が焼かれた際に去りゆく彼がみせた瞳だ。それが再び光となって彼の目に点っている。

「ならいい」

 守屋はそうとだけ言って背を見せた。大きく広い背中には先程の光は見えない。そこには諦めや幻滅と言った薄暗い哀愁だけが漂っていた。

 岩影に咲く曼珠沙華のようなまっすぐな背中。馬子はそれを引き止めたい衝動に駆られた。何故なのかは分からない。ただ、彼が彼ではなくなってしまうような、もう二度と共に歩んだあの日に戻れぬような、そんな虚しさだけが心の底に残った。


 伸びかけた手が宙をさまよう。

 馬子には、守屋の名を呼ぶことは出来なかった。










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