はじまり


 西暦五八六年の夏のことであった。

 先の大王・訳語田おさだの弟である穴穂部皇子あなほべのみこが、訳語田の亡骸がある殯宮もがりのみやに侵入し、その場にいた額田部皇女ぬかたべのひめみこを犯さんとしたのである。この穴穂部は、昨年厩戸の父・橘豊日たちばなのとよひ高御座たかみくらを争った皇子。そして額田部皇女とは、先帝訳語田の妃であり、後に推古すいこと称される女性であった。

 その話はもちろん蘇我や物部にも伝えられた。これが彼らの亀裂を拡げる大きな火種となった。


「これはまた面白いことになりましたなぁ」

  ふと屋敷の方から声が聞こえたので、厩にいた止利は壁越しに足を止めた。盗み聞きなどいかがなものかと思ったがそれよりも好奇心が勝ってしまったのだ。どうやら穴穂部とかいう皇子の話をしていたらしい。先ほどの声の主は河勝のようだった。

「悠長な······そうのんびりしているわけにもいかんよ」

 ため息をついたのは大臣・蘇我馬子である。そう言えば、止利がここへ来た後に誰かが駆け込んできた。それが馬子であったか。

 どこか焦るように身を乗り出す馬子に対し、厩戸が静かに問いかける。

「そう申されますと?」

「先程その穴穂部皇子さまが大王の宮にいらしたのですよ。そして私と守屋に向かいこう言うのです。三輪逆みわのさかうを斬れと」

「三輪逆?」

「ええ、亡き大王の寵臣ですよ。穴穂部皇子さまが殯宮に侵入したのを見つけ、門を閉めて追い払ったとかなんとか」

「それはまた忠義心の強い 」

「そうなのです。逆は亡き大王のためを思って、その亡骸とお妃である額田部皇女を御守りしたのです。それを勝手な振る舞いだと申して逆討伐を命じたのですぞ、穴穂部皇子さまは」

 馬子は息を荒らげたようだった。あの温厚な馬子が怒っているのも珍しい。それだけ逆を信頼していたのだろうか。

 そう思ったものの、疑問はすぐに打ち壊された。彼が眉を釣り上げる真の理由が飛び出てきたからである。

「しかし、その穴穂部皇子を擁護したのですよ、あの守屋が!」

大連おおむらじが? 」

 止利は手にしていた麻袋を落としそうになった。慌てて体勢を整えながら再び耳をそばだてる。

 物部は穴穂部の所業を許した。それは何故なのだろう。話を聞く限り、大王になるために未亡人である妃を襲おうとした穴穂部などおかしいと思った。止利は為政者でもなんでもない。しかし政治に関わらぬ一人の人間として純粋にそう思った。

 それを権力者である物部が許すなど······人の欲に疎い止利には到底理解が出来なかった。

「しかし、この河勝めは穴穂部皇子さまを蔑ろにするのも如何なものかと思いますな」

 突飛的な発言だった。驚く皆を他所に、河勝がニヤリと口の端を持ち上げたのが分かる。

「皇子さまの前でこのようなことを申す無礼をお許しください。しかし、人間いずれは死ぬものでございましょう。こののち、皇子さまのお父君である今の大王がお隠れ遊ばされたら、次の大王に一番近いのは穴穂部皇子さまでございます」

 厩戸の父はついこの前即位したばかりであろう。それなのに、もう次の大王のことを考えていたのか。一人だけ、一つ先の未来を見ていた河勝に不意を突かれた気がした。

「どうでしょう大臣、ここは一度穴穂部皇子さまに従ってみては。しかし逆討伐には加わらないように致しませ。手を下すのは大臣ではありません。あくまで一度見逃すだけでございます」

 少しの間沈黙が流れた。しかし馬子は頷いた。唸りながらも首を縦に振ったのだ。それに河勝がニヤついたのを厩戸は見逃さなかった。

「河勝、一体何を考えているのですか?」

 馬子が去った後、厩戸がぽつりと問いかける。清流のような響きに、止利もそっと屋敷を覗いた。

「僕が考えていること? ははは、決まっておりましょう。私が思いを馳せるのはただ飛鳥の未来だけでございます」

 厩戸は河勝を訝し気に見つめた。しかし一度目を閉じると、背を向けながら屋敷の奥へと入っていく。ただその最中、一つだけ声を張った。

「河勝。理由はわかりませんが、戦を促すのはやめなさい」

 止利はこっそりと河勝を見上げる。彼の眼は蛇のように鋭く厩戸を見送っていた。そこには言いようのない愉悦がうねりをあげて溢れていた。











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