来目
九月。秋も深まったこの月に、厩戸の父、
彼はこれまで通り、
そんな用明天皇元年──西暦五八六年の一月。
止利は新年の挨拶をするために、厩戸の宮を訪れていた。葉を落とした木々は雪の薄絹を羽織り、まるで白い梅でも咲いているかのようである。しかしながら舎人や下男下女の管理が行き届いているのか、宮の門前はきちんと雪がはかれていた。少々感心しつつ、調子麻呂に導かれて厩戸の屋敷へと上がる。馬の世話をするという調子麻呂を見送り板の間に入ると、静かに雪の音を聞いている厩戸がいた。
「あけましておめでとうございます」
丁重に挨拶をすれば、いつも通りの穏やかな笑みで迎え入れてくれる。父が大王となったからか、心なしか厩戸も一回り大人びて見えた。
「寒い中ありがとうございます。お仕事などもあるでしょうに」
「いえいえ。皇子さまのお傍に仕えることが出来て光栄なのです。それに、この度はお父君が大王におなりになったと聞きまして······」
止利が祝辞を述べると、厩戸は寂しげな顔で微笑んだ。しかし堅苦しい挨拶に慣れていない緊張のせいか、止利がそれに気づくことはなかった。
「兄上、調子麻呂が馬を見せてくれると言っていましたが今どこに······」
ふと、幼い声がした。丸い目をさらに大きくしてこちらを見つめる少年がいる。止利は初めて見る顔にぱちぱちと二、三瞬きをした。
「ごめんなさい。お客様が来ていたのですね」
慌てたように頭を下げる少年を見て、厩戸は「ああ、止利さんと会うのは初めてでしたか」とくすくすと笑う。呼応するかのように軒先の雪が一雫ぽたりと落ちた。
「弟の
「初めまして」と挨拶をする少年のあどけない笑みに頬が緩むのを感じた。可愛らしい笑みを非常に気に入った。何故だか分からないが親しみが湧くのだ。まるで春に顔を出すふきのとうのような、そんな若い陽だまりの色。薄い色彩のその髪もふわふわとどこかあたたかい。きっと厩戸や両親の愛を受けて優しい人に育ったのだろう。
懐から一枚の笹の葉を取り出すと、くるくると解いてみせる。そして、そこにあるものを差し出した。
「暇に任せて彫ってみたのです。拙い腕ではありますが、皆様に差し上げたいと思って」
小さな馬の人形であった。
「これは兄上の
来目の瞳がキラキラと光を放つ。思わずほう、と息が漏れた。
驚いた、それはまさしく厩戸の愛馬である黒駒を模して作ったものなのだ。一目見て分かるとは。
止利が「その通りです」と相好を崩すと、来目も花が咲いたようにぱっと笑った。
「やっぱり! 黒駒は
来目の小さな指が木像に伸ばされ、優しく鬣が撫でられる。実物のように形を変えることはないが、本物の毛であるかのように柔らかい手触りをしていた。来目はそれを感じ取って年相応にあどけなくはしゃぐ。
「兄上! これを調子麻呂に見せてあげましょう? きっと誰よりも喜びますよ!」
「ええ。せっかくですので、彼への贈り物と致しましょうか」
厩戸が来目の髪を愛おしげに梳く。誰よりもあたたかい兄に見えた。また一つ、厩戸の新たな一面をみたようで、止利の瞳も柔らかな光に満ちる。心から、木像を二人に捧げて良かったと思った。
しかしそんな穏やかな日々がいつまでも続くわけはない。同年五月、先の大王・
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