来目


 九月。秋も深まったこの月に、厩戸の父、橘豊日皇子たちばなのとよひのみこ高御座たかみくらについた。後に用明ようめい帝と称される大王である。

 彼はこれまで通り、大臣おおおみ蘇我馬子そがのうまこ大連おおむらじ物部守屋もののべのもりやと定め、翌年一月には穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこを皇后とした。この間人はしひとこそが、厩戸の母である。この橘豊日・間人共に、蘇我系の皇族であった。


 そんな用明天皇元年──西暦五八六年の一月。

 止利は新年の挨拶をするために、厩戸の宮を訪れていた。葉を落とした木々は雪の薄絹を羽織り、まるで白い梅でも咲いているかのようである。しかしながら舎人や下男下女の管理が行き届いているのか、宮の門前はきちんと雪がはかれていた。少々感心しつつ、調子麻呂に導かれて厩戸の屋敷へと上がる。馬の世話をするという調子麻呂を見送り板の間に入ると、静かに雪の音を聞いている厩戸がいた。

「あけましておめでとうございます」

 丁重に挨拶をすれば、いつも通りの穏やかな笑みで迎え入れてくれる。父が大王となったからか、心なしか厩戸も一回り大人びて見えた。

「寒い中ありがとうございます。お仕事などもあるでしょうに」

「いえいえ。皇子さまのお傍に仕えることが出来て光栄なのです。それに、この度はお父君が大王におなりになったと聞きまして······」

 止利が祝辞を述べると、厩戸は寂しげな顔で微笑んだ。しかし堅苦しい挨拶に慣れていない緊張のせいか、止利がそれに気づくことはなかった。

「兄上、調子麻呂が馬を見せてくれると言っていましたが今どこに······」

 ふと、幼い声がした。丸い目をさらに大きくしてこちらを見つめる少年がいる。止利は初めて見る顔にぱちぱちと二、三瞬きをした。

「ごめんなさい。お客様が来ていたのですね」

 慌てたように頭を下げる少年を見て、厩戸は「ああ、止利さんと会うのは初めてでしたか」とくすくすと笑う。呼応するかのように軒先の雪が一雫ぽたりと落ちた。

「弟の来目くめです。同じ屋敷にいるはずが、止利さんとは入れ違いになっていたのですね」

 「初めまして」と挨拶をする少年のあどけない笑みに頬が緩むのを感じた。可愛らしい笑みを非常に気に入った。何故だか分からないが親しみが湧くのだ。まるで春に顔を出すふきのとうのような、そんな若い陽だまりの色。薄い色彩のその髪もふわふわとどこかあたたかい。きっと厩戸や両親の愛を受けて優しい人に育ったのだろう。

 懐から一枚の笹の葉を取り出すと、くるくると解いてみせる。そして、そこにあるものを差し出した。

「暇に任せて彫ってみたのです。拙い腕ではありますが、皆様に差し上げたいと思って」

 小さな馬の人形であった。鞍作部くらつくりべの仕事をする際に余った木材で作り上げたのだ。来目は興味津々な様子で瞳を輝かせると、受け取って厩戸のそばに駆け寄った。

「これは兄上の黒駒くろこまですか?」

 来目の瞳がキラキラと光を放つ。思わずほう、と息が漏れた。

 驚いた、それはまさしく厩戸の愛馬である黒駒を模して作ったものなのだ。一目見て分かるとは。

 止利が「その通りです」と相好を崩すと、来目も花が咲いたようにぱっと笑った。

「やっぱり! 黒駒はたてがみが長いから」

 来目の小さな指が木像に伸ばされ、優しく鬣が撫でられる。実物のように形を変えることはないが、本物の毛であるかのように柔らかい手触りをしていた。来目はそれを感じ取って年相応にあどけなくはしゃぐ。

「兄上! これを調子麻呂に見せてあげましょう? きっと誰よりも喜びますよ!」

「ええ。せっかくですので、彼への贈り物と致しましょうか」

 厩戸が来目の髪を愛おしげに梳く。誰よりもあたたかい兄に見えた。また一つ、厩戸の新たな一面をみたようで、止利の瞳も柔らかな光に満ちる。心から、木像を二人に捧げて良かったと思った。


 しかしそんな穏やかな日々がいつまでも続くわけはない。同年五月、先の大王・敏達びだつ帝の殯宮もがりのみやにて、飛鳥を揺るがす発端になるような、大きな事件が起きたのであった。
















  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る