彦人
「嫌だなぁ、皆に見られると照れちゃうよ」
眉を下げた青年は止利に向かってにこりと笑った。困っているのか居ないのか······どうにも曖昧な声音だ。柔らかすぎるというのだろうか。間延びした声と柔和な笑みが彼の心を包み込んで隠しているかのように思える。しかし、だからといって人間みを感じないわけではない。むしろ素直で無邪気な子供のように、それでいて皆を見守る兄のように、人が人であるための温もりがよく見える。それがどうにも不思議に思えて心の奥がむずむずとした。
「初めまして。僕は
彦人皇子。初めて聞く名前だ。先代の第一皇子となると、次の大王にでもなるお方だろうか。変わった雰囲気をしているものの、柔らかく淡い花びらのような優しさがある。このような人が大王なら大歓迎だ。
「まぁ、普段は外に出ないからあまり会えないと思うけどねぇ。昔から病気がちでね、なかなかお出かけ出来ないんだ。それに······」
彦人は意味ありげな間をつくる。
「今はあまり物部や蘇我に会いたくない」
全ての皇子が難しい顔をした。止利はおや、と首を捻る。物部と蘇我が対立していることはもちろん知っている。しかし、彦人に対する皆の視線は今までのものとどこか違う。彦人だからこその特別な色があるようにみえた。
「
ふと幼い声がした。そちらに顔を向ければ竹田が小さな身体で俯いている。先ほどから元気がなかったが、この時には泣きだしそうな顔をしていた。初めて見る感情の揺らぎにとくりと心の奥が跳ねる。
「皆ひどい」
竹田は強い口調で繰り返した。
「父上が亡くなったのに誰も悲しんでくれない。きっと全部嘘だったんですよ。皆、父上がいなくなっても悲しくないんです」
私は寂しい。竹田はぽろぽろと涙をこぼした。突然のことのように見えたが、先程から涙をこらえていたのだろう。ついに耐えられなくなったというように朝露のような雫を落とす。その様子はひどく
顔を覆う竹田を見て、横にいた難波が彼を抱きしめた。母が違うとはいえ、兄として見過ごせなかったのだろう。いつも明るく快活な難波の情の深さがひどく心に染みた。
「皆さんお疲れでしょう。話し合いなどは群臣に任せて今日はもう休んではどうですか?」
厩戸が静かに言う。しかし、たった今来たばかりの皇子たちを帰すのはどうも不自然に思えた。そもそも何故ここに集まったのだろう。止利は大王の葬儀に立ち会えるような身分ではない。今こうして様々な皇子と対面していること自体奇跡に近いのだ。そのため、葬儀の場で何があったのか。そしてなぜ皆が厩戸の元へ来たのか。そんなことなど知る由もない。
しかし、理由をずけずけと聞ける訳もなく、謎を残したまま集会はお開きとなった。竹田と難波が寄り添って広間を出た後、他の皇子たちも続く。
「彦人皇子さま」
「ん?」
広間の入口辺りで話していたのは
「新しい
泊瀬部の視線の先には大柄な護衛がいた。がっしりとした体格に無表情な強面。馬子に仕えていた
「ああ。これは前から僕に仕えてる子なんだけどね、人前へ連れ出すのは初めてなんだ。なんせ僕自体、普段は外へ出ないから······」
そんなことを言いながら、彼らは外へと出て行ってしまった。後には止利と厩戸だけが残される。
「どうです? 止利さん」
「へ?」
「今出会った彼らがこの国を支えていく皇子たちです。いずれ仏師になるのなら、彼らにも顔が知れていた方がいいですから。難波皇子さまもそこを分かっていて貴方を招き入れたのでしょう」
ああ、この人達はそこまで考えていてくれたのか。親身な姿勢に頬が熱くなった。何故彼らは身分の低い自分に尽くしてくれるのだろう。やはり、大王の血を引いていると神にでもなれるのだろうか。彼らの背後に眩しい朝日を見た気がした。
「それにしても調子麻呂は遅いですね。まだ皆さんと話しているのでしょうか」
厩戸が戸口の方を見つめる。皇子たちを見送りに行った調子麻呂がなかなか帰ってこないのだ。しかし、噂をすればなんとやら。すぐに広間の入り口から調子麻呂が顔を出した。そして、後ろには······。
「お久しぶりですな、皆さん」
随分と懐かしい顔がにやりと笑う。そこに居たのは豪商・
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