第五章「用明天皇」

春日


「邪魔するぞ」

 突然聞こえた声に、うまやにいた止利とりはくるりと振り返った。厩戸の屋敷で馬具の修理をしていたのだが、聞こえた声は彼のものではない。そもそも厩戸はお隠れになった大王おおきみの葬儀に行っていたはずだ。

 不思議に思って表へ出てみれば多くの客人がいた。そのうち、見覚えのある快活な男が止利を見つけてパッと笑顔になる。

「おっ、この前の鞍作部くらつくりべ。はは、また会ったな! 確か名前は止利って言ったか?」

「覚えていただけて光栄です、難波皇子なにわのみこさま」

 名を呼ばれた喜びをかみ締めながら、止利はぺこりと頭を下げる。横にいた竹田も軽く会釈をしてくれたが、どこか元気がないように見えた。前に見た時はあどけなくも芯のある印象を受けた。それゆえに、萎れた姿に心がざわりと動いた気がした。

「おい、厩戸! 入っていいか?」

 難波が後方に声をかけると、「どうぞ」とどこからともなく厩戸の声が聞こえてきた。屋敷の外で門番と話をしているようだった。葬儀の後、仲間の皇子たちと共に帰ってきたのだろうか。

「せっかくだからお前も上がれ、鞍作」

 難波が勝手を知ったように止利の背中を押す。初めこそ遠慮したものの、結局は勢いに押されて見慣れた板の間に上がってしまった。


 改めて客人を見れば、かなりの数が集まっている。止利が知っているのは難波と竹田、そしてその護衛と言った四人だけだが、彼らを含めて十人ほどの人数は集まっていた。服装を見るかぎり、五人の皇子と五人の従者といった具合か。従者達は己の主人である皇子が座るのを見ると、後ろに身を引いて壁際に立ち退く。

「あれ? 止利さんも居たんですか」

 どうしたものかと戸惑っていると広間に厩戸が入ってくる。縋るように事の顛末てんまつを話せば、全くといいたげに難波を見て苦笑した。

「あの、席はどこでも······?」

 止利が調子麻呂の横に座ったところで奥から声が上がった。初めて見る皇子だった。淡い髪色で、歳は厩戸と難波の間といったところだろうか。爽やかな薄花色の衣が白い肌によく似合っていた。

「はい、どこでも。では、泊瀬部皇子はつせべのみこさまは左端でどうでしょう?」

「分かった」

 止利の傍に座った彼が会釈してくる。笑顔こそ薄かったものの悪い印象は無かった。こちらに興味がないというよりは、自分に自信が無いかのような印象を受ける。現に止利が目を合わせようとした途端、気まずそうに瞳を逸らしてしまった。

 同時に、さらに横にいた男が気になって視線を流す。彼も初めて見る顔だった。難波と歳が近いように見えるが、止利に興味を持っているのかいないのか、初めから視線が合わなかった。

春日かすが、お前も初対面だろ。挨拶しとけ」

 難波が気を利かせて声を上げると、春日と呼ばれた彼は初めてこちらを向いた。涼やかな目に柳の眉。非常に整った顔をしているが、目には冷たい水面が滲んで見えた。美しいからこそ荒涼と光る月のような······そんな印象が受け取れた。

「俺の弟なんだ。普段は飛鳥に居ないんだが······まあ仲良くしてやってくれ」

 声を発しない春日に対し、素っ気ない態度だなと思ってしまった。難波の気さくさを見てしまったが故でもあるのだろう。彼らは同じ腹の兄弟だと言うが、雰囲気は真逆と言っていいほどに違う。難波が真夏の太陽だとすれば、春日は春の朧月だろうか。

「春日皇子さまとは私も久しぶりに会ったのです。普段は小野おのの方にいらっしゃいますから」

「小野?」

 止利が首を捻ると、厩戸は「ええ」と目を細める。

「この飛鳥の北東に、大きな湖のある淡海あわうみという土地があるのです。主に春日氏が治めるあのあたりの土地を小野と呼ぶのですよ。春日皇子さまは、その湖にほど近い御屋敷にいらっしゃいます。確か河勝かわかつが詳しいですよ、あの辺の土地には。その湖を水運として商売をしていますから」

 「へぇ」と眉をあげる。どれほど大きな湖なのだろう。止利は湖というものを見た事がない。池よりも大きな水溜まりだと聞いたことがあるが、山々に囲まれた飛鳥よりも広いのだろうか。まだ見ぬ不思議な世界に夢が広がった。

「まぁ春日より顔見てなかったやつがいるんだけどな」

 難波が広間の端を見ながら茶化すように言う。そこにいたのは穏やかそうな顔をした一人の青年だった。












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