特例


 海柘榴市つばいちの騒動から三月みつきほどが経った。季節は夏を迎え、木々は青々と茂っている。いつの間にか、止利が厩戸に出会ってから一年の時が過ぎていた。

「皇子! 前に預けた仏を返してもらう時が来ましたぞ!」

 感極まった声で厩戸の元にやってきたのは大臣・蘇我馬子である。馬具を渡し終わって帰ろうとしていた止利は「仏」という言葉に足を止めた。

「仏? あの仏像のことですか?」

 厩戸が同じ疑問を口にする。馬子は嬉しそうに「いかにも!」と頷いた。

大王おおきみが仏を崇めることを許してくださった! この馬子のみの特例じゃ!」

 今にも泣き出しそうな馬子を見て、厩戸が「落ち着け」と彼の肩をさすった。しかし馬子の歓喜は収まる気配がない。どうにか事情を聞き出したところ、大王である訳語田おさだが馬子にのみ仏を崇める許可を出したのだという。物部軍に攫われた三人の尼も無事に解放されたようだ。

「意外ですね。あの様子だと大王も大連おおむらじも仏教の信仰を阻みそうなものですが······」

「守屋は反対しておりましたよ。ただ、大王が良しとおっしゃったものだから、それ以上反論することはなかったのです」

 なんでも、あの海柘榴市の騒動の後、訳語田と守屋がほぼ同時に体調を崩したらしい。海柘榴市に集まる民衆たちが「異国の神の祟りだ」と噂していたので、止利も話だけは聞いたことがあった。訳語田がしぶしぶ頷いたのはその影響もあるのだろうか。

「この馬子も病がてんで治りませぬ。仏を崇めずには居られぬのですよ」

 馬子はそう言い残すと仏像や仏典を引き取って帰って行った。もちろんあの大きな仏像も、である。

 しかしながら、止利は一つ疑問に感じることがあった。なぜ馬子は仏教にこだわるのだろう。彼の父が崇仏派であったからか、物部に対抗したいからか、はたまた純粋に心惹かれているのか······。


 それからしばらくの間は緊張状態が続いたものの特に大きな騒ぎはなかった。馬子と守屋は互いに睨み合っているようだが、それも牽制にすぎず、武力行使に出ることはなかった。

 しかし事態が急変したのはその年の八月のことであった。病にかかった大王・訳語田が崩御したのだ。

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