第四章「蘇我馬子」
悪夢
「そういや
柔らかな感触が楽しいのか、難波が止利の髪を梳きながら言う。
「ええ。ご自身の病を治すためだとか」
「しかしまあ大臣も間が悪いな」
そこで皆が口を閉ざした。馬子が仏を崇め始めてからというもの、狙っていたかのように疫病が流行り始めた。まあ、寒いこの時期では仕方あるまい。しかしそれで
「大臣は大丈夫なのでしょうか」
止利も少しずつ飛鳥の情勢が分かるようになってきた。この状況が蘇我にとって良くないことは理解出来る。
「
難波は父である大王の顔を思い浮かべたらしい。確かにせっかく大王の信頼を勝ち取ったのだ。ここで物部らが大王の逆鱗に触れるような振る舞いをするとは思えない。
ところが、厩戸はその先を読んでいた。
「しかし大王を利用することはありましょう。難波皇子さまの前で言うのもなんですが、今の大王は仏教に厳しい。その点で、仏教の排除を口実に大王の権力が排仏派に利用されるのでは?」
「例えば?」
「例えば、蘇我に親しい僧侶らが虐げられるなど」
例を挙げるにしてははっきりとした声音だった。厩戸は小さく息をついたのち、「夢を見たのです」と付け足す。
「
「海柘榴市? あのでっかい市場か」
「はい、そこで三人の尼が辱められておりました。あれは最近大臣が親しくしている尼。彼女らを取り囲んで鞭打っていたのは物部です」
難波は難しい顔で黙り込んだ。尼のことは知らないが海柘榴市のことなら知っている。飛鳥と諸国を繋ぐ陸路の要にあり、多くの人々で賑わう場所だ。あんなところで辱められては生きた心地がしないだろう。
「止利」
ふと難波が名を呼んだ。何だと思って顔を上げれば、彼は心配そうに眉を寄せている。
「お前、
「ええ、そうですが······」
「ならなくて良かったな」
難波はきっぱりと言った。止利は拍子抜けして見つめ返す。
「厩戸の夢が正夢になるのなら、もはや仏教関係者の立ち位置はない。しかも、今お前が大臣や厩戸専属の仏師になっていようものなら......」
難波はその先を言わなかった。しかしそこまで言われれば、止利にも後に続く言葉が見えた。その瞬間、ぞわりとした悪寒が背を這い、首に縄をかけられた心地がした。
「気をつけろよ」
難波は励ますように止利の背中を叩く。
──神や仏が恐ろしいわけではない。
かつて感じた行きどころのない不安を思い出す。
──ただ、先の見えない自分の未来が恐ろしいのだ。
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