刀自古郎女


「駒! 父上を放ったらかしにしすぎじゃないの!? 出かけるなら出かけるって言いなさいよ!」

「これは······」

 ドタドタと廊下を走る足音。共鳴するかのような甲高い声。雷のような賑やかさに駒がバツの悪そうな顔をした。

 勢いよく走り込んできたのは一人の少女だ。桃色の立派な装束を身につけ、髪には赤く可憐な花が挿してある。彼女は止利や竹田のことなどお構い無しに駒を睨むと、すぐさま彼に駆け寄った。

「父上が心配しておられましたよ! 駒がいない、駒がいないと! どうせ河勝の後を付けたんだろうと思って呼びに来てあげたのよ!」

「申し訳ございませんでした。大臣には私からきちんと謝罪しておきます」

「貴方はこーいう時だけ勝手なことするんだから! あまり父上に心配かけさせないでちょーだい!」

「と、刀自古とじこ、あまり駒を責めないであげなさい。駒も大臣のことを心配していたのでしょう」

 少女が腰に当てて眉をつり上げると、追いかけてきた少年が慌てて制止の声を上げた。馬子の屋敷から帰ってきた厩戸であった。刀自古という少女を宥めようと近づくも、彼女はますます頬をふくらませて厩戸を見た。

「皇子は甘いのです! この駒は父上の頼みの綱なのですよ? 駒がいない間に何かが起きたらどうするのですか! 蘇我の家のことに口出ししないでくださいまし!」

 一体何が起きているというのだ。口を尖らせる少女に首を捻りながら、止利は河勝の耳に口を寄せた。

「か、河勝殿。あのお方は?」

「ああ、あの姫は大臣の娘で皇子さまの······」

「妻です!!」

「ひっ」

 突然こちらを向いた少女に、思わず飛び上がった。よくもまあ囁き声が聞こえていたものだ。本人は声を張り上げていたと言うのに。

「刀自古。まだ貴方は妻というわけでは······」

「もう決まったことでしょう! それとも何です? 皇子は刀自古が妻じゃ嫌なのですか?」

「いえ。私はそんなこと一言も······」

 凄い。あの厩戸が慌てた表情をしている。場違いだとは分かっているが思わず感心してしまった。それだけ少女の勢いは凄かったのだ。普段物静かな厩戸を焦らせるなんて。

 それにしても、厩戸に妻······いや、現状を見た限りまだ許嫁なのだろうか。そんな存在がいたことは知らなかった。しかも彼女は馬子の娘だという。厩戸と馬子の親密さがやっと腑に落ちた気がした。

「でも皇子は刀自古に会いに来てくれませんもの」

 苦笑いを浮かべた厩戸に対し、刀自古は口を曲げた。すぐさまパチリとした瞳を細めると視線を横に向ける。強い眼差しの先にいたのは他でもない止利であった。

「見ない顔ね。さてはあなたが噂の鞍作部くらつくりべね? 皇子から聞きましたよ」

 幼さなど関係ない鋭い眼光。獲物を狙う狐のようにゆっくりと近づくと、掴みかからんとばかりに萎縮している止利を見下ろす。

「何故この屋敷にあがっているの?」

「······え」

 絶句した。厩戸たちに出会ってから初めてかけられた言葉だった。心に杭を刺されたようで瞳孔がぐらりと揺れる。しかし刀自古はお構い無しといった様子で甲高い声を響かせた。

「あなた、ここがどこだか分かってる? ここは皇子みこの邸宅よ。品部しなべの身分の者があがっていい場所じゃないわ」

 辺りの空気が口を閉ざした。まるで時が止まったかのような静寂の中で、ただただ刀自古だけが頬を紅くして熱を放っている。


 ああ、確かにそうだ。言われてみればそうなのである。止利は忘れていたのだ。甘えていたのだ。自分のことを温かく受け入れてくれた彼らに。

「そう······ですね。刀自古さまのおっしゃる通りでございます」

 止利は頭を床につけた。冷え冷えとした熱が額に広がる。

「私は恐れ多くも皇子さまに甘えておりました。どうか無礼をお許しください。これにてお暇させていただきます。失礼いたしました」

 そのまま皆に頭を下げて重い腰を上げた。 河勝が何かいいたげに止利の名を呼ぶ。それに思わず振り返りかけたが、口を結ぶとその弱さに耐えた。

 竹田が心配そうに顔を歪めていた。駒は顔色一つ変えなかったが頭を上げてこちらを見つめていた。河勝と調子麻呂は互いに顔を見合わせて眉を寄せる。彼らの視線を痛いほどに受け止めると、どこか重い足取りで屋敷をあとにした。

 去る直前、厩戸が真剣な顔で刀自古に歩み寄るのが見えた。視界の端で白い衣がさらりと揺れる。上質な布と黒々と光る美しい床。それが遠い天界の景色に見えて、止利は目を瞑って駆け出した。

 突然訪れた静寂だった。天から夜が落ちてきたかのようだ。何かを誘うように揺れる稲穂の中で、一人 甘樫丘あまかしのおかを目指す。不思議と悲しくはなかった。涙も出なかった。ただ、ほんの少しだけ母のぬくもりを恋しく思った。


 飛鳥の大地に日が沈む。赤々と照った寂しい光だ。止利はそれを見つめながら無心で足を動かした。小さな川を超えれば、黄昏の薄闇の中から鍛冶部かぬちべの人々が刀を打つ音が聞こえてくる。

 丘の麓にたどり着いた時、こちらに向かって小さく手を振る人影が見えた。同じ鞍作部の福利ふくりだった。

 ああ、僕の居場所はここだ。やっぱり僕は品部なんだ。

 止利は深く考えるまでもなくそう思った。その思考にホッとする。自分はまだここに居られる。あの屋敷はきっとつかの間の夢だったのだ。福利の片手に握られた松明が揺れる。その灯火は、何故かひどく懐かしかった。











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