第三章「刀自古郎女」

大臣


「何だ、河勝かわかつ殿も来ていたのか」

 河勝とともに厩戸を待っていると、背後から低い声がした。そこに居たのは一人の男だった。背丈は低いものの、立派な装束を身につけている。年は三十ほどに見えるが、瞳には若々しい光が宿っていた。

「おお、これはこれは大臣おおおみ。お久しぶりですなぁ」

 止利は驚いて河勝に倣った。

 

 確かにそう言った。何度か耳にした言葉は、もちろん記憶にしっかりと残っている。今 目の前にいるこの男が蘇我馬子そがのうまこか。止利はやっと現実の生々しさに引き戻された。

 正直、この時の止利は夢現ゆめうつつな気持ちでいた。それも無理はない。突然河勝に彫刻の腕を褒められ、仏師の道を教えられたばかりだったのだから。自分に才能があると言われた嬉しさと、突然新たな道を提案された戸惑いで止利の心は入り乱れていた。そんな中、突然飛鳥の権力者が姿を現したので、止利の驚きようは凄まじかった。


 しかしそんな止利の心を知るわけもなく、厩戸が「ああ、止利さんもいらしてたんですか」とにこやかに笑う。厩戸の前にいた馬子は「ほう」と片眉を上げて止利に目を移した。

いまし止利とりか?」

 突然声をかけられた止利は、口から心臓が飛び出るかと思った。何故 大臣おおおみともあろう人が止利の名を知っているのか。畏れ多さに返事が震えた。

「そうか。そんなに緊張せずとも良いよ。いましの名は皇子みこから聞いている」

 馬子の言葉に、厩戸はどこか幼い瞳で微笑んだ。

 厩戸といい調子麻呂ちょうしまろといい、あまりにも止利の名を広めすぎではないか。自分は皇族でも豪族でも豪商でも何でもない。ただの鞍作部くらつくりべの若造である。皇族の屋敷に上がれているだけでもおかしいのに、大臣と顔を合わせるなど。いっその事退出した方が良いだろうか。

「止利さんもここにいていいですよ」

 驚いて顔を上げた。厩戸が到底十歳とは思えぬ大人びた表情でこちらを見ている。まるで心の内を読まれたかのような声がけに、思わず視線を逸らす。相変わらずよく分からない皇子だ。たまに人だと思えなくなる。

 しかし止利の疑問を知ってか知らずか、厩戸は「ね、いいでしょう? 大臣」と親しげに馬子に問いかけた。珍しく幼げな声だと思った。

「私は構わんよ」

 馬子はそう言って止利を見つめる。萎縮したのが分かったのか、隣にいた河勝が小さく肩を揺らして笑った。

「ははは、止利くんはやっぱり可愛いね」

 止利は膨れたような顔で河勝を見つめる。しかし、こんな空気の中でもあっけらかんと笑う河勝に、助けを求めたい気持ちもあったのだろう。目にはどこか縋るような色が含まれていた。

 河勝もそれに気づいたらしく、カチコチになった止利の肩を抱き寄せると厩戸に目配せをする。厩戸は馬子を促して自分の隣に座らせた。二人が定位置に座った後、河勝は「大臣」と馬子を呼んだ。

「止利殿の腕は私も保証致しましょう。よわい十四にして天才ですぞ。それに、どうやら仏教にも興味がある様子」

「えっ」

 声を上げたのは、いまだ河勝の腕の中にいた止利だ。驚いたように河勝を見ると、耳に小声で言葉をかける。

「ちょっと河勝さん! 私はまだ仏師になる心の準備が······」

「大丈夫 大丈夫。まだ誰も君の彫刻の腕については触れてないよ。まずは仏教を知ってみなきゃ仕事の選択は出来ない。せっかくなんだし、皇子さまと大臣に教えて貰いなさい。それで仏教に触れてみて、自分に合うのかどうか、仏師になるのかどうかを決めるといい。彫刻をしていることは、選択に合わせて自分で伝えなさい」

 小声でヒソヒソと話し始めた二人に、厩戸と馬子が顔を見合わせる。先程の河勝の言葉を不思議に思ったのか、厩戸が傍にいた調子麻呂を呼んだ。そしてチラリと止利を一瞥しながら「止利さんはいつ仏教に触れたのですか?」と問う。しかし、調子麻呂はただ曖昧な笑みを浮かべて「さぁ」と首を捻るばかりであった。








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