第二・五章


皇子みこ厩戸皇子うまやとのみこさま」

 己の名を呼ぶ声がする。それは水底に揺れる波紋のように心の奥を震わせた。読み取れる感情は喜び、または感激と言ったところか。とろりとした微睡みの中で、厩戸は静かに目を開けた。


 ああ、何度も見た景色だ。この夢を見るのは何度目だろう。もはや数え切れないが、いつの記憶かは見当がついた。これは幼き夏の日の光景だ。夢の中の厩戸はまだ三つか四つの稚児である。しかし厩戸が同じ夢を見る時は、必ず「これは夢だ」という自覚があった。

 幼い稚児でありながら、中には十一の自分がいる。前に見た時は十だった。その前は九つ、さらに前は八つ。しかし、いずれにせよ見た目は幼い稚児だ。目を回すような時の歪みに、これは本当に己の身だろうかと余計なことを考える。しかし所詮は夢なのだ。今の己が誰であろうと、今床で寝ている本来の厩戸には関係の無いこと。


 ああ、それもまた余計なことか。もう考えるのはよそう。厩戸はそうやって目の前の男を見た。


 彼は飛鳥を代表する豪族の一人で厩戸とは親しい仲である。小柄ではあるが、若くして大臣おおおみとなった男だ。もちろん人を惹きつける力があり、それなりの覚悟も持ち合わせておろう。

 しかしそれでいて、心が立場に追いついていない気もする。どこか必死に主導者に見合う人物になろうとしている。厩戸はそれを稚児ながらに悟っていた。夢の中の稚児ではない。夢が現実だった頃の話である。だからこの男を慕っていたのだ。完璧を苦手とする厩戸だからこそ、彼の不器用な人間くささが好きだった。

「皇子! 皇子の夢がまた正夢になりましたよ!」

 男は小さな厩戸を抱き上げるとくるくると嬉しそうに回った。

「私の頭痛が治ったのも、皇子のおかげやもしれません」

 夢の中の厩戸は優しく笑った。どうやら自分は正夢を見る体質らしい。それを自覚したのもこの頃だったと思う。

 確か、頭痛が酷いというこの男の夢を見たのだ。夢の中では嵐が過ぎ去った後に治った。それを告げたところ、突然やって来た嵐の後に本当に頭痛が晴れたのだという。

 正直偶然ではないかと思った。しかし目の前の男は喜んでいる。ならばこれで良いのだろう。所詮は終わった夢だ。

「大臣」

 厩戸は男を呼ぶ。耳を揺らした声に彼が顔を上げた。その顔は今よりも少し若い。当たり前だ、昔の夢を見ているのだから。

 しかし、不器用な笑顔は今となんら変わらなかった。優しさを上手く表に出せていないもどかしい笑み。それを見た時、厩戸は何かを言おうとした。


 しかし声になる前に冷たい朝の中で目を覚ました。まだ日の昇りきっていない澄んだ空。柔らかく薄い光が厩戸の端正な横顔を照らす。

 自分が何を言おうとしたのか、十一になった今でも分かっていない。しかし、それを急いで探す気はなかった。本当に必要なことはいずれ時が満つれば分かるだろう。

 冷たい朝日に手を透かす。赤い輪郭がぼんやりと浮かび、血潮の流れを感じさせた。ああ、これは本物の自分か。十一になった厩戸だ。

 ひしひしと現実が見に迫り、夢の波が去ってゆく。長い髪を軽く手で梳くと、既に起きているであろう調子麻呂の元へと向かった。










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