分岐点


「止利くんはいつから彫刻を始めたの?」

 河勝は彫刻を二人の間に置いた。日差しが和らいできたからか、幾分か床が冷たい。

 止利が彫刻を始めたのは三年ほど前であった。鍛冶部としてやってきた百済の男が古くなったノミを譲ってくれたのがきっかけだ。初めは見よう見まねであったが、最近は手慣れてきたように思う。

「三年? そうか」

 河勝が顎に手を当てて考え込む。

 ああ、この雰囲気だ。この男が見せる商人の顔。それを見ると客観的に評価される自分が商品になったかのように思える。調子麻呂や難波とは全く異なる雰囲気。それが少し苦手だった。現に、何を言われるのだろうかと身構えてしまっている自分がいる。別に河勝のことが嫌いなわけではないのだが、彼の商人たる表情にはなかなか慣れなかった。

 鞍作部のくせに彫刻などするなと言われるだろうか。未熟な彫刻を元にして鞍を作るなと叱られるだろうか。そんなことばかりが頭を巡ったが、それも単なる杞憂であった。しばらくして口を開いた河勝の言葉は、止利にとって意外そのものであったのだ。

「止利くんってさ、仏教に興味あったりする?」

「ぶ、ぶっきょー?」

 あまりにも突飛な単語に間抜けな声を出してしまった。「渡来してきた方がよく信仰しているアレですか?」と問えば、河勝は「そうそう」と笑顔を作る。

「いやね、君の彫刻の腕は才能だと思うんだ」

 止利はきょとんと目を丸めた。今、この男は自分を褒めたのか? それがどこか現実離れしていて狐に包まれたかのような気分になる。

「何の教えも請わずにたった三年。それだけでこんなに精密で柔らかな作品を生み出せるのは才能以外の何物でもないよ」

 この時の河勝は、打って変わって生き生きとした表情をしていた。飄々とした口ぶりに似合う楽しそうな笑みを浮かべている。あまりにも一瞬の変貌であったため、正直心が追いつかない。それでも褒められていることは理解出来たのか、自分の頬に熱が広がっていくのが分かった。

「止利くんはさ、仏師ぶっしっていう人達を聞いたことはある?」

 呼び名くらいは聞いたことがあった。

「彼らは仏像を作る職人でね。ああ、仏像っていうのは言わば仏様を具現化した彫刻さ。仏教を信仰する人々の中には仏像を仏に見立てて崇拝する人も大勢いる。最近はやまとでも仏教が信仰され始めているからね。仏師と呼ばれる彫り師の仕事も需要が出てきたんだ」

 説明を聞くのも半ば夢見心地だった。河勝の説明は分かりやすいのだが、如何せん止利は仏教に詳しくない。何となく仏師の仕事は理解したものの、褒められた驚きと話の意外性からか仏教とは何たるかを上手く理解出来ずにいた。

「まあ今すぐ決めろってわけでもないけどね」

 河勝は止利の心を見透かしたかのように言葉を続ける。

「仏教ってのは確かに難しい部分もある。でもね、君には仏師が向いている。僕はそう思うんだ」

「僕が?」

「そう」

 頭の中が霧がかったかのようにぼんやりと霞む。行き場のない感情と飲み込めない言葉の羅列の中で、止利は河勝の顔を見つめることしか出来なかった。

「君は素直だ。純粋な心を持ってすれば仏教の教えもきっといつかは理解出来る。それに彫刻の腕は本物だよ。いくつもの作品を見てきた僕が言うんだもの、間違いないよ。僕はそんな才能を泥に埋もれさせたくはない」

 河勝の目はとても優しかった。先程までのピリリとした光が嘘のように朗らかな色に包まれている。

 止利はその目を見た時に何故か心の奥が熱くなった。理由はわからない。ただ彼が放った「仏師」という言葉が思いの外すんなりと心に入ってきた。それはどこか澄んでいて落ち着く響きを持っている。霧の中で見えた唯一の鮮やかな光だった。

「まあとりあえずは仏教について触れてみるといいかもしれない。幸い厩戸皇子様は仏教に理解があるお方だ。日々の会話がてら尋ねてごらんなさい」

 河勝は床に置かれていた鞍型の彫刻を止利に手渡す。木の温もりが、河勝の体温と相まって止利の両手に優しさをのせた。

 しばらくの間彫刻を離せずにいた。木の重みをしっかりと抱き、何を考えるわけでもなく座り込み続ける。しかし調子麻呂と厩戸の声が近づいてきたところで彫刻を麻袋へと戻した。穴の空いた袋から空を望むかのように、何か新たな光が差し込み始めているような気がした。














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