第二章「秦河勝」

河勝


 止利とり厩戸皇子うまやとのみこに仕え始めてしばらくの時が経った。季節は春から夏へと移り、辺りはもうすっかり夏草に覆われている。夏の飛鳥は鮮やかなものだ。四方の山は青々と輝き突き抜けるような晴天によく映える。


 夏風が舞い込む厩戸の屋敷で、止利はちょこんと板の間に座ったまま困惑していた。

 横には一人の男が座っている。止利が厩戸の元へ来たところ、この男と鉢合わせた。顔こそ正面に向けているものの、意識は確実に止利の方を向いている。かつて出会った難波皇子なにわのみこともまた違う。難波は好奇心溢れる様子で止利という人間に興味を示していた。しかしこの男はまるで品定めでもするかのように止利の能力や価値をはかろうとしている。そんな光が瞳の中に垣間見えた。

皇子みこさまは本当に優れたお人を捕まえますな」

 唐突に男が言った。自分の話をしている。そのくらいは止利にも分かった。対する厩戸は一瞬片眉をあげるも、直ぐに苦笑した。

「また河勝かわかつはそのようなことを言う。人は品物でも獣でもありませんよ。私は彼を捕まえた覚えはありません」

 呆れてはいたが男に対する慣れが見える。怒りや失望というよりは、からかいを受け流しているように見えた。よほど昔馴染みらしい。河勝と呼ばれた男が肩を揺らすと。長い髪を緩く束ねる飾り玉がカチリと鳴った。

「これは失敬。皇子さまのおっしゃる通りだ。この河勝、最近はどうもピリピリしていていけませんね。渡来系の人を見る度に新羅しらぎ百済くだらかと探ってしまう」

 ドキリとした。確かに止利の家系は大陸からやまとへと渡ってきた流れにあるらしい。祖父からは大人になったら教えると言われたきり、詳しいことは聞けていない。しかしながら、それをこの男に教えた覚えはない。そもそも初対面なのである。なぜ自分の出自を知っているのだろうか。

「あまり彼を怖がらせないであげなさい。怯えているではありませんか」

 河勝はやっとのことで止利を見下ろした。糸のように細い瞳にふわりとした太い眉。初めて真正面から見つめた河勝の顔。唇にはいかにも胡散臭そうな笑みがたたえられていた。そこにどろりとした愉悦を見た気がして思わず背筋を震わせる。

「ごめんね、鞍作部くらつくりべなのかなって思ってね。品部しなべだと渡来人の家系が多いから」

 心臓が飛び出るかと思った。何故鞍作部だと分かったのだ。それを問えば、「君の手だよ」と愉快な声音で笑われる。

「君の手にあるタコの位置と指の変形の仕方······それに当てはまるのは大体鞍作部だね。まぁ君の場合は変なとこにもタコがあるから気づきにくかったんだけど」

 サラッと言ってみせた河勝にポカンと口を開ける。いつ見られていたのだろう。止利はずっと拳を握って膝の上に置いていたはずだ。彼が手の平を見ることが出来たのは屋敷に入ってきたあの時だけ。短時間でそれだけの情報を読み取ったというのか。

 止利は圧倒された。今までに見たことがないタイプの人間だ。あっけらかんとしているようで、己の心の奥は見せようとしない。まるでこちらの心だけを透かし見られているような心地がした。

 しかし、対する河勝はくすくすと笑うと気にした様子もなく肩をすくめる。

「この子可愛いね。久しぶりにここまで純粋な子を見たよ」

「か、かわっ?」

 思わず口を曲げた。そんなことを言われたのは母親と共にいる時以来だ。戸惑ったように萎縮する止利に、河勝は「ほらかわいい」とケラケラ笑う。どこまでも胡散臭い男だと思った。正直さっさとこの場から逃げ出したい。

 そんな二人を見て、部屋の隅に控えていた調子麻呂ちょうしまろも苦笑する。河勝に対する苦笑いなのだろう。「全く」とため息をつくと、厩戸は調子麻呂にそっくりな笑みで言った。

「本当にそういうところですよね、河勝は」

 珍しく、どこか疲れたような笑みだった。









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