黒駒


 皇子みこたちの邪魔しないようにそっと外へ出た。日は少し西に傾いたがまだまだ昼は盛りである。

 二人で裏のうまやへと向かえば、相変わらず美しい毛並みをした黒馬がいた。彼は調子麻呂の姿をみとめると、嬉しそうに目を細めて低くいなく。

 鞍作部くらつくりべは馬具を作るのが仕事だが、実際に馬と触れ合う機会は中々ない。初めて見る馬の嬉しそうな姿に温かい愛嬌さえ感じた。

 じっと見つめていたからか、黒馬がこちらに気がついた。見慣れない止利に耳を立てると、誰だと言いたげに鼻を鳴らす。

「黒い馬なので黒駒くろこまって呼んでるんですよ、この子」

 止利と黒馬の目が合ったことに気がついたのか、調子麻呂が笑う。

「ほら、黒駒。止利とりさんですよ。あなたに新しい鞍を作ってくれた方です」

 言葉を理解しているのかいないのか、こちらを伺うように立てられていた耳が些か柔らかさを取り戻す。そのまま歩み寄ってくると、鼻をひくひくとさせて止利の顔周りを嗅ぎ回った。

「ふふっ、可愛い」

 かかる息はくすぐったいが、温もりは人のようだった。調子麻呂は「そうでしょう?」と心底嬉しそうな顔をする。

「皇子さま自慢の愛馬なんです」

 調子麻呂は本当に厩戸うまやとと黒駒のことが好きらしい。彼らの話をする時は必ず瞳がきらきらと輝いた。

「黒駒のことはずっと調子麻呂さんがお世話しているんですか? だいぶ長い付き合いのように見えますけど」

「そうですよ。彼が皇子さまの元へ来てからずっと、私がお世話しております。もうかれこれ四年ほどになりますかね」

 四年だと? その言葉に首を捻る。厩戸はまだ十歳だと言っていた。そうなると黒駒に出会ったのは六歳の頃ではないか。さすがに馬に乗るには幼すぎると思った。その事を問えば、調子麻呂も「そうなのですよ」と頷く。

「初めは大臣おおおみの言葉が発端でした」

「おーおみ?」

「ええ、この飛鳥をまとめる豪族の一人で、蘇我馬子そがのうまこさまとおっしゃいます。この飛鳥には多くの豪族がいますが、中でも強いのが大臣おおおみである蘇我馬子さまと大連おおむらじである物部守屋もののべのもりやさまです。今はお二人を中心に、豪族たちが大王おおきみを支えております」

 大臣や大連というのは、かばねと言われた当時の称号だ。細かいところまでは言及しないが、分かりやすくいえば家系を表すのが「うじ」であり、地位や立場を表すのが「姓」である。蘇我馬子の場合、蘇我が「氏」であり、大臣が「姓」であった。

 現代の我々から見ると当時の氏姓制度は中々理解しにくいのだが、それは止利にとっても同じだった。身分が低い彼にとって政治のことはよく分からない。しかし蘇我馬子と物部守屋という二人の男が強いのだということは辛うじて理解した。

「大臣は、皇子さまにとって大切なお方です。皇子さまの母君は蘇我家にゆかりのあるお方ですから。皇子さまも大臣を慕っておりますし、大臣も皇子さまを可愛がっておられる。皇子さまにとって大臣は幼き頃からの歳離れた友人なのです。そして皇子さまが六つにおなりになられた時、大臣はこうおっしゃいました。皇子さまに馬を贈りたい、と」






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