皇子


 遠目に映える山桜が飛鳥の大地を点々と彩っている。しばらく進むと、緑の中を黒い影が走っていることに気がついた。どうやら馬のようで、止利は思わず立ち止まる。日光を浴びて艷めくたてがみが、風に美しくなびいている。遠目から見ても分かるほどに麗しく上質な馬であった。

 馬の背には、一人の男が乗っていた。角髪みずらから垂れる絹のような黒髪が、白い衣と相まって日差しによく映えている。

 まるで神様みたいだと思った。そう思わざるを得ないほどに神秘的だったのだ。袖の長い服を着ているあたり、きっと身分の高い御人なのだろう。あのような人に仕えられたら。ふと、そんなことを考えた。

 美しさに恍惚としている間にも、黒馬は素早く野を駆ける。その姿が見えなくなって止利はやっと意識を取り戻した。同時に、どこか淡い期待を抱きはじめる。黒馬が向かった先こそが、今から目指すべき邸宅の方角である。もしかしたらあの方が、と夢のようなことを考えていた。

 だからこそ、驚いたのだ。厩戸皇子の屋敷に辿り着いた時、門の中にあの黒馬がいたことに。そして、横には初めて見た二人の男が立っていたことに。


 厩戸皇子うまやとのみこの屋敷にいた彼らは、にこやかに話をしていた。ひょろりとした青年が、肌の黒い男に向かって「皇子みこさま」と話しかけている。しかし、明らかに先程見かけた黒馬の主とは違った。先程の彼よりも髪は短く体格が良く見えた。

 止利とりが呆気にとられていると、青年がこちらに気付いて「あら」と声をかけてきた。

「もしかして、新しい鞍作部くらつくりべの方でしょうか?」

 青年は慌てて止利を招き入れた。綺麗に整えられた土の上に落ち着いた屋敷が建っている。美しく磨かれた柱や扉の木目が青々とした空によく映えていた。

 青年は、鞍を受け取るために手荷物を置きに行く。後頭部で結われた髪が真っ直ぐに背中に落ち、馬の尾のようにも見えた。名を聞けば、調子麻呂ちょうしまろと言う舎人とねりらしい。舎人とは、古代日本において皇族や貴族に仕えた家来たちのことを指す。身の回りの雑用や警備など様々なことに従事していた。調子麻呂は愛馬の世話を専門にしているのだとか。

「鞍作部ってことはこいつの新しい馬具か」

 馬の背を撫でながら横にいた男が話しかけてきた。じっと止利を見つめると、日を背負って笑ってみせる。真夏の太陽のような男だと思った。

 この方が厩戸皇子さまだろうか。こんなに快活だとは思っていなかったが、調子麻呂が「皇子さま」と呼んでいたのだからきっと彼が厩戸なのだろう。

 しかし、この馬が先程の黒馬だと思うのだ。背中にいた主はどこに?

 現状が分からないまま、日に映える馬を見つめる。しかし、彼は美しいだけで何も教えてはくれなかった。

「鞍作部ってどんな感じで仕事するんだ?」

「え?」

「いや、色々聞いてみたいんだ。飛鳥の品部しなべたちの作業場とかあまり見ないから······」

 思いの外、親しく話してくる皇子に困惑した。どこまでも明るく気さくな人であるようだ。どう答えるのが正解なのかと頭を悩ませた、その時だった。


難波皇子なにわのみこさま、その方はまだ新任なのです。あまり困らせないでくださいませ」


 屋敷の入口と思わしき所に一人の男が立っている。整った鼻筋に睫毛の長い柔らかな目。身体の線はすらりと細く、身長も見上げるほどに高かった。

 止利はあっと目を見開いた。シルエット、雰囲気、角髪に収まりきれていない長い髪。それはまさに、先程見かけた黒馬の主そのものであった。








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