36.縮まる距離感、見えない深さ。

 どれくらい歩いただろうか。


 先導する久我くがの足が止まり、綾瀬あやせの手を握る力が弱まるまでに、少なくとも十分以上は要したような気がする。その間、彼女の歩みは全く緩むことは無かったし、決して離すまいと言う意思が籠りすぎた手は、正直痛いくらいだった。


 そんな彼女が目指していた場所は、


「公園……?」


 公園だった。看板に書かれていたと思わしき名前は残念ながら経年劣化のせいで読み取ることは出来ないが、公園であることに間違いは無い。それなりの広さを持ち、ブランコや滑り台、ジャングルジムや砂場といったメジャーな遊具がきちんと存在している。


 周りに団地を抱えているところを見る限り、恐らく同時期に併設して作られたものなのだろう。申し訳程度に植えられた草木と、その下に備え付けられたベンチが憩いの場といった装いになっている。時期が時期だからなのか、人は一切おらず閑散としている。


「こっち」


 暫くぶりに声を発した久我は、再び綾瀬の手を、今度はゆっくりと引いていく。後をついていくような形で公園内に足を踏み入れる。引かれる手は、一つのベンチの前で離される。 


 久我が目線で促す。どうやらここで話をしたいらしい。ここまで来て断る理由もない。綾瀬はベンチを軽く手で払ってからゆっくりと腰を下ろす。久我はそんな一挙手一投足を確認したのち、同じように手でベンチを払ってから、ゆっくりゆっくりと、何かにおびえるように腰を下ろす。ちなみにその場所は綾瀬から人半分分くらい距離がある。


 沈黙。


 遠くから子供の泣き声と、母親の叱る声が聞こえてくる。一筋の風が吹き、木々がさわさわと揺れ動く。乗り手のいないブランコがきいきいと軋む。遠くからバイクの走る音がする。


「再婚なの」


 唐突だった。


 あまりに唐突すぎてなんのことか分からなかった。


 久我は続ける。


「さっき綾瀬くんも会ったと思うけど、あの人が私と血の繋がった母親。で、綾瀬くんは会ったことないと思うけど、その再婚相手が、私の……血の繋がってない、父親」


 どうしてそんなことを切り出すのだろう。


 そんなことを思った。


 ただ、一つだけ思い出したのは、


「もしかして、なんだけどさ……さっきの買い出しって、」


 久我は縦に一つ頷き、


「そう。血の繋がってない父親……あの人の為のものがほとんど」


「いや、でも」


 記憶をたどる。その尋常じゃない量はどう考えても一人分では無かったはずである。久我は苦笑まじりに、


「流石にあの量を一人で食べるわけじゃないよ。もちろん、あの人が食べる分も含まれてるけど、殆どは来客用」


「来客……って、新年の?」


「そ」


「え、でも、あの量って……そんな親戚が来たりするのか?」


 今度は首を横に振り、


「違う違う……いや、親戚も来るには来るんだけどね。だけど、大半はあの人の仕事仲間の分」


「仕事仲間っていうと……会社の同僚とか?」


 久我は鼻で一つ笑って、


「どうだろうね。私もきちんと把握してるわけじゃないんだけど、同僚とか取引先以外の人の方が多いんじゃないかって気がする。中にはその……あんまり良くない人も交じってるみたいだし」


「良くない人って、」


「カタギじゃなさそうな人。ま、あくまで私が見てそう感じただけだから、実際は違うかもしれないけどね」


 間。


「あの人はね、そうやってのし上がってきた人なのよ。使えるものはなんでも使って、すり寄っておけば自分に利がある相手には全力ですり寄る。自分がそんななのに、私には厳しいのよ。面白いでしょ?」


「厳しいって……遊んでないで勉強しろとか?」


 久我はきょとんとした後笑い、


「あっはははは……いや、そんなんじゃないよ。っていうか、それだったら私も別に気にしてないって」


「だったら、」


「貞操」


「ていそう?」


「そう。あの人はね、そこを凄い気にする人なの。女の子が夜遊びしちゃいけないとか、お付き合いもしていない男を家に上げるなとか、逆に家に行くのは駄目だとか、とにかくもう煩いのなんのって。自分のことは棚に上げちゃって」


「自分のことって……」


 そこで綾瀬の頭に一つの可能性がよぎる。久我はそんな空気を感じ取ったのか、軽く縦に頷き、


「そういうこと。不倫、かな。分かりやすく言うなら。それも、一人や二人じゃないみたい。家にまでは連れ込んだりしないんだけど、まあ、隠さないからさ。分かりやすいの。朝に帰ってくるときは大体そう。普段は全然しないような良い香りさせちゃってさ。それが何なのか分かんなかったから小さいころには結構恥ずかしいことしてたなぁ。先生宛に書く手紙みたいなもので書いたら割と本気で心配されたりとか」


「それ、どうしたんだ?」


「んー……うやむやにした、かな。最初は先生の言う通りにしようかなって思ってたんだけど、なんか話が大きくなりそうだったのと、お母さんがその話聞いてから寝込んじゃって。それで、まあ。私が何かしていいことじゃないんだなって、思って」


 久我は空を見上げながら、


「最近はね、一人立ちしろってうるさくって。大学を出たらもう一人前で、親の力なんか借りちゃいけないんだって。そりゃ私だって、それが出来ればそうしてるよ」


 再び間。


「でも、さ。現実そうは行かないんだよね。ホントは寮みたいなのがある会社が良かったんだけど、そうもいかなかったし。かといって、今の状態で一人暮らしなんか無理なのは分かって。後、お母さんをあの人と二人にするのもあんまり気が進まないしね」


 乾いた笑い。


 そこに久我真由美まゆみという人間を見た気がした。


 綾瀬と接するときは決して見せる事の無かった、彼女の内側。弱い所。そこに彼女自身を見た。そんな気がした。


 だから綾瀬は、


「じゃあ、さ。あの洋館に引っ越したらどうだ?」


「…………え?」


 少し。ほんの少しだけ踏み込む。今までなら決してやらなかったことだ。


「いや、もちろん久我さんが嫌ならいいんだけど。ただ、ほら。あそこ部屋の数も多いし、そこに住んでるのが四人じゃちょっと寂しいじゃん。最近は久我さん毎日顔出してるし。それなら住んでも一緒かなって。家からも近いから、ほら、様子を見に行くのも出来るし。会社……は分かんないけど、行きに寄るよりはいいんじゃないかなって。えっと、それから……」


 思いつく限りの理由を並べ立てる。確かに館の部屋はまだかなり余っているし、正直四人だと広すぎる感があるのは事実だ。しかしだからといって久我がそこに住む理由にはならないし、母親が心配だと言うのはたまに様子を確認しに行けばいいというものではないのではないか。後から後から「言わなければよかった」という感情が溢れ出てくる。後悔先に立たず。無かったことには出来なくてもせめて弁明くらいは、


「くっ……」


 瞬間。


 久我が声を漏らす。口元を抑え、何かをこらえていたが、やがてそんなこともばかばかしいとばかりにお腹を押さえながら、


「あっはっはっはっはっはっはっはっは……なに?もしかして心配してくれたの?」


 綾瀬は急に恥ずかしくなって顔を逸らし、


「えっと……多分?」


「多分って……はははっ」


 久我は暫くおかしそうにしていたが、やがて収まったのか目尻を拭いながら、


「いやー……元気出た。ありがとね、」


 そこで言葉を切り、


「ね、提案なんだけどさ」


 綾瀬の手を取って、


観月みつきって呼んでいい?」


「え?」


 思わず振り向く。その視線の先には頬を掻く久我がいて、


「や、嫌だったらいいんだけど。ほら、私達結構長い付き合いなのに、未だに苗字呼びじゃない。それもどうかなって。後はまあ、観月って名前が単純にいいなって思って」


「それ、理由になる?」


「なるなる。どう?私のことも真由美まゆみって呼んでいいからさ」


 考える。


 高校の頃から彼女は男子との距離感は近い人だった。


 ただ、不思議とその呼称は最後まで苗字であることが多かった。それは彼女なりの距離感だったのかもしれないし、単純に苗字の方が響きとして好きだったということかもしれない。或いは名前呼びをすることで自分も名前で呼ばれるのが嫌だったということも考えられる。ただ一つ確かなのは、彼女と名前で呼び合う関係性になったような男子は、綾瀬の知る限りでは一人もいないということで、


「分かった。それじゃ、えっと……真由美?」


「うひゃぁあ」


「……何、今の」


 久我は片手で待ったのサインを出し、


「いや、うん。ゴメン。いいんだけど、流石に心の準備が欲しかったかな」


 綾瀬は笑って、


「何それ」


「や、うん。そうだよね。そうなんだけど。分かってたつもりだったんだけど。こう、不意打ちみたいな感じで、ね」


 久我の声はどんどん小さくなっていく。


「えっと……んじゃ、取り敢えずやめとく?」


「や、大丈夫。順応する、私が」


 名前呼びに順応するというのはどういうことなのだろうと思ったがそれは口に出さずにおく。


 久我は一つ深呼吸をし、


「えっと……観月?」


「何故疑問形」


「いや、なんとなく……いいんだよね。間違ってないよね?」


「うん」


 というかたった三文字の「みつき」という音に間違いもクソも無いと思うのだが。

 久我はどっと肩の力が抜けたような息を吐き、


「はぁ~……」


「そんなに疲れること?」


「いや、そんなはずないんだけどね。だけど、なんか、こう、一仕事終えた感が、ね?」


「ね?って言われてもなぁ……」


 綾瀬も久我も、お互いに名前で呼び合ったことで達成感を得たのか、暫くの間次の言葉を思いつかずにいたが、久我が「よし!」と勢いよく立ち上がり、


「今日はなんか、ゴメンね。こんなことになっちゃって」


「いや、まあ、それはいいんだけど、これからどうしようか」


 久我は数回瞬きをし、


「え、どうしようかって、私の用事はもう終わったよ?」


「まあ、そうだけどさ。だけど、ほら、当初の予定だと一日付き合うみたいな話だったから」


 久我は「そういえばそんなこと言ったな」という感じに、


「あー……や、でも、それはあくまで方便っていうか、別にホントに丸一日綾瀬……観月に付き合ってもらおうと思ってたわけじゃないよ?」


 そう。


 そんなことは綾瀬も分かっている。


 ただ、それとは別に、そんな方便も理由にして、一日を共に過ごしてみたいという気持ちも確かにある。だから、


「そうだけどさ。一応、一日付き合うよって言っちゃったから。それに、ほら、当初の目的だった買い物とかは全部付き合えなかったし。その代わりって感じで。もちろん、久我が嫌ならいいんだけど……」


 久我は首を横に振って、


「そんな!嫌なんてことは無い。無いけど……ホントに良いの?綾瀬……観月にも用事があるんじゃないの?」


 綾瀬は苦笑して、


「そんなものがあったら苦労はしないよ。まあ、ホントは無いとも言い切れないんだけど、今はまあ、いいや」


「そうなの?」


「そうそう。だから、まあ、行きたいところがあったら、付き合うよ。普通に」


「付き合う……」


 久我は口元を抑えるようにして、


「えっと……それじゃ、一つ行ってみたいところがあるんだけど、いい?」


「うん。よほど遠くなければ、だけど」


「あ、それは大丈夫。頑張ればここから徒歩でも行ける距離だから」


「頑張れば?」


「うん、頑張れば。普通は歩いては行かないかな。電車で数駅分はあるから。観月の住んでるあたりだし」


「え、あの辺って何かあったっけ?」


「あるある。あの辺、結構スイーツとか有名な店があるんだよ。だから、前からちょっと行きたいなーって思ってたんだけど、いい機会かなって」


 綾瀬は思わずぽろりと、


「それ、俺必要?」


「必要だよ。一人で行くの、なんか嫌だもん」


 力説されてしまった。別に行くことが嫌なわけではない。


「ま、それならいいんだけど、」


 綾瀬も立ち上がり、


「んじゃ、行くか」


「そうだね。ここにずっといても寒いし」


 二人、公園を後にする。気が付かなかったが、いつのまにか公園にはちらほらと子供の姿があった。離れたところには母親と思わしき女性もいる。久我はそんな光景には目もくれずに足早に敷地内を後にする。そんな後ろ姿にかけるべき言葉は思い浮かばない。


 ブランコの揺れる音がする。一人の少年が、自分の方が上手く漕げていると自慢する。母親が会う無いからやめなさいと強めに注意する。少年はそんな忠告も無視して漕ぎ続け、勢いをつけて砂場へと幅跳びをする。歓声と注意が入り混じる。日は段々と傾いていく。

 


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