35.慚愧の鎖。

「えっと……」


 絹江きぬえの目線が彷徨いだす。恐らく綾瀬のことをあまり覚えていないのだろう。無理もない話だ。彼女と最後に会ったのは数年前。しかも本当に一瞬の出来事だ。


 綾瀬は助け舟を出すように、


綾瀬あやせです。綾瀬観月みつき。真由美さんとは高校の同級生で、」


「ああ」


 絹江は漸く思い当たったのか、


「その節はどうも……以前は本当に申し訳ありませんでした」


 深々と、折れるような会釈をする。


「いや、別に気にしてないですって。場所移せばいいだけですし」


 そう。


 綾瀬は二度、この家を訪れてる。


 一度はプリントを届けに来た時。そしてもう一度は、久我が自分の家で打ち合わせをしようと言い出した時だ。ただ結果として、いずれの時も家の中までは入らなかった……というか入れてもらえなかった。


 その理由が何なのか、綾瀬は未だに知らない。ただ、久我本人だけではなく、絹江までからも丁重に断りを入れられたことをみるかぎり、家の中が片付いていないとか、見られたくないものが出しっぱなしになっているとか、その手の個人的な問題でないことは容易に想像が出来た。


 その為綾瀬も以降出来る限り久我の家に行くなどとは言いださなかったし、二人で何かの打ち合わせをしなければならない時も、他の場所を選択していた。ちなみにその中に綾瀬家は入っていない。これは綾瀬家の問題では無く久我の問題で、曰く、



「彼氏じゃない人の家に連れ込まれるのは嫌だなー」」



 とのことだった。多くの男子相手に彼氏同然の振舞いをしている人間が言うセリフではないとも思ったのだが、全く間違った考えでは無かったので、以降選択肢としても提示されなくなったという経緯があったりする。


 そんな訳で、綾瀬はその時に絹江と会っているのだが、逆を言えばその時以来となるわけで、綾瀬からしてみれば全く記憶の彼方となっていたような自称が彼女の心には未だに引っかかっていたらしい。絹江は頭を上げ、


「それでも……一応真由美の方からお誘いしたということで……ごめんなさいね」


 再び軽く頭を下げる。とうとう綾瀬も流れで頭を下げ、


「いやいや……別に気にしてないんで。ホント。突然押しかけてすみませんでした」


「いえいえ……こちらこそ」


「いやいや……」


「いえいえ……」


 これはまずい。


 何となく返していたが、絹江は謝罪のラリーをやめる気はないらしい。このまま綾瀬が謝り続ける限り、永遠と続きそうだ。なので、


「そういえば、なんですけど」


「はい、なんでしょうか」


「今日ちょっと買い物に付き合ったんですよ、真由美さんの。なんか量が凄くって、驚きました」


 最初は上手く話題を転換出来たと思っていた。


 ただ、後になってみるとそれは地雷原から足を上げて地雷原に足を踏み入れるような行為だった。つまるところ、それもまた絹江の謝罪ポイントで、


「あぁ……申し訳ございません。本当は私が買ってくるようにと言われていたのですけど、あの子が「自分がやる」と言って聞かなくて……ご迷惑じゃなかったですか?」


「いや、そんなことはないですけど……」


 迷惑だった、とは思っていない。


 ただ、もし思っていても、そんなことは口が裂けても言えないなと思った。


 絹江は続ける。


「あの子、本当は今日仕事があったんです。だけど、私が買い物の話をしたから、休んでまで手伝ってくれて。朝から出掛けて行ったんですよ。朝ごはんも食べずに。それに突き合わせてしまったのですね……」


 綾瀬は手を振って否定し、


「あ、いや。朝からではないですよ。買い物に出たのは昼前くらいだったかな……それくらいです。俺もまあ、用事があったわけではないですし。真由美さんも、別にその為に休んだ訳では無さそうでしたよ?」


 絹江はやや信じがたそうに、


「そう……なんですか?私はてっきり、またあの子に迷惑をかけてしまったのかと」

「いやぁ……そんなことは多分無いと思いますよ、」


 綾瀬はそこまで言ってあることに気が付き、


「……また?」


「ええ」


 少しの間。


「あの子は、凄く賢くて、良い子ですから。私のことで迷惑をかけてしまうことがよくあるんです」


「それって」


 瞬間。


「お母さん……!?」


 二人はほぼ同時に、声がした方を振り向く。


 久我だった。


 その手に荷物はない。恐らく室内に置いてきたのだろう。


「ああ……真由美。今こちらの人に挨拶をしてたのよ」


「挨拶って……」


 久我は「恐れていたことが起きてしまった」という顔でずんずんと近づいてきて、


「私言ったよね。今日は私がやるから……って。だから、お母さんは出掛けててって……」


 絹江は全く口調を変えずに坦々と、


「そうなのだけれどね。けど、やっぱり気になるのよ。ほら、あの人のことだから、私が居ないと駄目なんじゃないかって」


「そんなこと……っ!」


 激情をぶつけようとした久我を諫めるようなタイミングで絹江が、


「聞いたのよ、真由美。今日、綾瀬さんが手伝ってくれたって」


「っ……それは」


「無理しなくていいのよ、真由美。私なら大丈夫だから。ほら、せっかくの休みで、綾瀬さんも来てくれてるんだから、どこかに出掛けてきなさい。ね?」


 そう言いながら久我の背中をゆっくりと押す絹江。力は決して強くないはずだ。それでも久我はじわじわと外に追いやられ、


「じゃ、じゃあ、せめてこの荷物くらい運」


「それも大丈夫。人を頼んであるから。ね?」


 微かな抵抗を見せていた久我は両手をだらんとさせ、


「……分かった。でも、無理はしないでね?」


「ええ。大丈夫よ。行ってらっしゃい」


 久我は綾瀬の手を思い切り掴み、


「行こ」


「え、でも」


「いいから」


 有無を言わせない力。抵抗すれば、本気で無力化されそうな意思が伝わってくる。

「……分かった。それじゃ、失礼します」


 綾瀬の礼を受けた絹江は柔らかく微笑み、


「ええ。今日はごめんなさいね」


 最後まで謝りを挟んだ。


 久我に手を引かれながら、綾瀬はその場を後にする。そんな彼がはっきりと確認出k亡くなるまで、絹江はずっと手を振り続けていた。



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