34.話し上手、聞き上手。
タクシーそのものは案外すぐ捕まった。
問題はその後だった。
件のスーパーは駅前隣接を謳っているが、実際のところは改札口から走り出し、信号や歩行者といった障害物にひっかかることなく到着したとしても一分近くはかかるであろう距離があり、歩いて(しかも大荷物を持って)移動するならばそのかかる時間は猶更長くなるわけで、そんなことを悠長に待ってくれる相手である必要があったのだが、
「ん、いいよ。っていうか、あれだ。前まで行った方がいいかな?」
と、一瞬で快諾を得た。帽子をかぶっているためか、染めているからなのか、見た目からはあまり年齢が判別できないが、車内に見えた写真に写っている彼の髪は黒よりも白が目立つというものだった。年齢は遠くてよく見えなかったが若くはなさそうだった。
運転手は親切にもスーパーの前まで移動してくれた(しかもその間メーターを動かすことは無かった)上で、荷物を運び入れるのまで手伝ってくれ、その上で目的地を聞くと、
「すぐ近くだけど、いいの?」
と笑いながらメーターや表示を操作してくれた。あまり商売っ気がしない。よくよく見ればどこかの会社に勤めているというわけではなく、個人のタクシーであるようだ。
彼は語る。最近はあまり若い人を乗せる機会が少なくってね。観光客くらいかな、そういうのは。短い距離でも乗りやすいようにとかいって初乗りの値段も下がったけど、それでそんな変わるもんかなぁって僕なんかは思っちゃう。まあ、ほら、僕はそんなに儲けとか考えてなくて、こうやって色んな人と話して、車が運転できればそれでいいからね。いっちゃえば老後の趣味だね。まあ老後っていうほど歳は取ってないんだけどさ、わはは。
面白い人だなと思った。
そして、話すのが上手い人だなとも思った。
こちらが適当な相槌しか打っていなくても全く気にすることはなくしゃべり続けているが、その言葉は全くと言って良いほど嫌な感じはしない。一応ラジオも流れてはいるのだが、それよりも彼の言葉の方がすっと耳に入ってくる。
そんな心地の良い響きに乗せられてしまったのかもしれない。
綾瀬はつい、
「あの、運転手さん」
運転手はかかかと笑い、
「そんな立派なもんじゃないさ。おじさんでいいよ」
「えっと……じゃあ、おじさん」
「何だい」
「おじさんはなんでタクシーの運転手になったんですか?」
「んー……」
運転手改めおじさんは初めて言葉に詰まり、
「なんだろうね。流れみたいなもんかな」
「流れ、ですか?」
「そそ。流れ。おじさんね。ちょっと前までは運送会社に勤めてたんだよ。そこそこ大きめの。入ったときは良かったし、自分の仕事にも誇りを持ってたよ。だけど、まあ、これも流れなのかな。会社から人と人の繋がりが希薄になっていったんだよね」
「繋がり……」
おじさんは片手をぶんぶんさせて否定し、
「ああ、別に若者が飲み会に参加しないからけしからん!みたいな話じゃないよ?ただ、なんだろうね。会社全体に漂うあの「人を扱ってることを忘れてる感じ」っていうのかな。それが何だか嫌になっちゃって。人手は常に不足してたし、辞めるっていった時は相当止められた。だけど、その言葉の殆どが「いなくなられたら困る」っていう彼らの話だったから、ああ、やっぱり辞め時かなと思って、やめちゃった」
沈黙。
「だから、まあ。こうやって若い人たちの力になれるのは嬉しいんだよね、うん。幸い生きていくのには困らないくらいの蓄えはあるから、後はまあ、楽しみみたいなもんさ。ははははは」
返せる言葉が見当たらなかった。
彼は軽く言うが、長い間勤めていた会社をやめるというのはそれなりに勇気のいる行いではないのか。それをこんなにもあっさり語れる人間に対して、返せる言葉なんてとても、
「あの」
その時だった。後部座席にいた
「おじさんはその、結婚って……して、ますか」
言葉が後半に行くにつれて弱くなっていく。言いながら「これは聞いていいことだったのだろうか」という葛藤に支配されたのだろうか。
ただ幸いにも、
「してるよ。子供はいないけどね」
彼の言葉はかなり軽かった。
「そう……なんですね」
少しの間。
「奥さんとは、今もその、」
おじさんは先回りをするように、
「仲が良く見えるかどうかは、知り合いに聞いてもらうしかないんだけど、」
左手をひらひらさせて見せ、
「大事にしているつもりだよ、自分なりに」
そこには一つの指輪がきらりと光っていて、
「……ありがとうございます」
久我は礼を言う。その顔は、助手席に座る綾瀬からでは伺うことは出来なかった。
◇
スーパーから久我の家までは本当にすぐだった。大通りを少し行った先で脇道に入り、何度か右折や左折を繰り返した後にたどり着いた。時間にして十分もかかっていないだろう。久我の言う通り、荷物さえなければタクシーを使うことはまず考えないだろうという距離だ。
「ここか」
「ええ、ここよ」
綾瀬は思わずまじまじと眺める。
築年数を感じる立派な日本家屋。それでも古さを感じさせないのは、何度かリフォームを含めた手を入れているからなのだと言うのはかつての久我の弁だが、どうやらそのたゆまぬ努力は今でも続いているらしい。
二階建ての瓦屋根。周りの家がいかにも未来を想像して拘りましたというデザインばかりな故に、なお一層目の前に鎮座する日本家屋の存在感は増している。
そんな家に、綾瀬は二回ほど訪れたことがある。
一回は珍しく学校を休んだ久我にプリント類を届けに行く役割を仰せつかった時。
そしてもう一回は、
「ちょっと待ってて」
久我は綾瀬を制して門を通り抜け、慣れた手つきで正面扉の鍵を開けると、扉を観音開き状態にして固定し、
「ごめんね。すぐ運んじゃうから」
久我は右手をかざして謝罪し、門のあたりに無造作に置かれた袋のうち二つを手に取り、
「や、手伝うぞ?」
「いいって」
「でも」
「いいの」
拒絶。
綾瀬としても流石に相手の気持ちを無視してまで親切を押し売りしようという気はない。
「……んじゃ、待ってるわ」
「ごめんね」
再度謝罪。
謝るくらいなら手伝わせてほしい。
正直にそう思った。
だけど、そうはならない事情がある。今の綾瀬はそんな気がしていた。
「ふぅ……」
思わずため息。
久我は二つの袋を重そうにしながら玄関まで運んでいく。大きな家特有というべきか、その間にはそこそこの距離がある。どう考えても手伝うべきだし、玄関口でこうやって黄昏ている場合では無いはずなのだ。彼女の意向さえなければ。
そんな背中も完全に開ききった扉の向こう側へと消えていった、そんな時だった。
「あら……?」
背後から声がする。綾瀬は思わず振り向き、
「あ」
記憶が蘇る。
この人は確か、
「えっと……
そうだ。
顔はあまり記憶にないが、その恰好だけはよく覚えている。このご時世には珍しく、特段の事情が無ければ和装を好む、久我の母親のしてはやや歳のいった、それでも若かりしころの美貌を感じさせる顔立ちの女性。間違いない。久我の母だ。名前は確か、
「ええ。母の
そう言って久我の母、久我絹江は確かめるように会釈をする。
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