16.暖炉のある部屋で語らって。
「あー…………」
館内をざっと見て回り、必要な情報と、不必要な冗談を交えたクリスの説明を受けた後、三人は一息つくために談話室と名付けられた部屋にたどり着いたわけなのだが、
「んあー…………」
ソファーにどっかりと座った綾瀬は声にもならない声を上げ、背もたれに思いっきり寄りかかってしまった。正直言って余り行儀のよい行為であるとは思えないのだが、仕方ない。何せ館内はそれほど広かったのだ。
それ以前に、朝からやや疲れが取れていない感じがあったというのも事実ではあるが。寝不足なのだろうか。それにしては目が覚めたのは朝というよりは昼と言うのがふさわしい時間だったのだが。
クリスはぽつりと、
「……やはりお嬢様と夜通し」
「はい、もう回復しました。夜もきちんと寝ました。はい」
クリスはふふっと微笑む。いや、笑う所じゃないから、ここ。
彼女は改めて咳払いをし、真面目な声で、
「いかがでしたでしょうか、綾瀬様」
綾瀬は一言、
「いやぁ……凄かったわ」
我ながらなんともボキャブラリーに欠ける返しだと思うが、正直それくらいしか返しが思いつかなかった。
個々の部屋についてならばいくらでもコメントが出来る。一体どこの別荘かと問いたくなるほど豪華なソファーやテーブルに、暖炉の備え付けられた談話室とされる部屋。料理に使うと思わしき場所はキッチンというよりは厨房という表現がふさわしく、中にはおおよそ見たことも無いような調理器具がずらりと並んでいた。ピザを焼くための窯は一体いつ使うというのか。
それ以外の部屋も凄かった。風呂は老舗の銭湯が裸足で逃げ出すレベルの広さと豪華さで、当たり前のようにサウナが備え付けられていたし、トイレは個別の部屋にあるものとは別に一階と二階に備え付けてあり、これまた高級ホテルに迷い込んだのではないかという錯覚を受ける広さと豪華さだ。
一階にあるそれ以外の部屋は半分以上何も物が置かれていなかったが、唯一使用感の有った部屋には壁面を覆うような本棚に、そこから溢れんばかりの書籍が並び、中央奥には、そこで何か書き物をすれば、ちょっとこじゃれた文章が出てきそうな立派な机が備え付けられていた。
クリスによれば、かつては旦那様(つまりは水神の父親だ)が使っていたが、今は使われていない部屋なので、あまり乱暴に使わないのであれば本を読むのも、机に座って作業をするのも好きにして構わないということだった。
ただ、そのありがたいはずの申し出も、恐らくは無駄になってしまうような気がする。
その理由は二つある。
ひとつは、蔵書があまりにも専門書に寄りすぎているということだ。中には綾瀬が読んでも大丈夫そうなものもあったが、その多くは正直手に取ろうとも思えないものばかりだ。概ねがビジネス書、しかも経営者が読むような難しいものばかり。あいにく綾瀬は経営者を目指している訳ではないので、手に取る機会はなさそうな気がする。
そしてもうひとつは、二階に位置する、個人の部屋が、一回の書斎を利用する必要がないくらいの快適さだ、ということだった。
案内されてびっくりした。一部屋一部屋が綾瀬の住んでいたアパートの部屋全体よりも広いのだ。当然内装は
リゾート地のホテルのような大きな窓を開けてベランダに出ると、手入れされずに伸び切った木々を拝むことが出来た。クリス曰く、しばらくしたらここから外の景色がきちんと見えるようにしますとのことだった。正直建物自体の高さを考えると、そこまで変わるような気がしないのだが、彼女がそれなりに自信を持って(冗談を交えずに)言っていたので、それなりに楽しみにして良いのかもしれない。
そんな、余りにも綾瀬の手に余ってしまいそうな洋館だが、
「この暖炉は使わないの?私、これ気に入ったわ」
などとのんきなことを言っていた。クリスは割と平然と、
「使ってもよいのですが、なにぶん火を付けるのも消すのも労力を要する上に、急な事だったために燃やすための薪もまだご用意できていないというのが現状なのです。それに、」
視線を斜め上に向け、
「正直、エアコンの方がはるかに手軽で、快適ではないかと思うのです」
ロマンの欠片も無かった。綾瀬も思わずクリスと同じところに目を向ける。ビルトインなのか存在感があまりなく、正直「あそこにありますよ」と指し示されなければ気が付かない可能性もあるほどのそれは、フル稼働で部屋の中を暖めている。クリスによれば各部屋ごとに温度調節が可能なのだそうだ。とても古めかしい外観からは想像できない程のハイテクさだが、
「でも、私は暖炉も好きよ。薪の用意が出来たらつけてみましょ?」
「かしこまりました」
その機能性はお嬢様の「こっちの方が好きなの」というワガママに無事敗北していた。いや、この館のことだから、暖炉も暖炉で最新式ということはありそうだが。
クリスはこほんと咳ばらいをし、
「取り敢えず、綾瀬様にも気に入っていただけたということで、」
姿勢を正す。ちなみに何故かソファーの座り方は綾瀬と水神が隣り合わせで、クリスがその対面という形だった。しかも恐らくは向こうが上座。ご主人様を立てなくていいのだろうか。
「まずは事実の確認をしておきましょう。と、言いましても大体はお嬢様からお聞きになられていると思われますが」
「まあ、確かに。記憶喪失、なんでしたっけ」
「ええ。その通りです。そして、それを直すためにはお嬢様にとって印象的だった出来事や思い出がきっかけになるだろうというのがお医者様のアドバイスだったのです。そして、思い出というのが」
「俺と遊んだことって訳か」
「その通りです」
綾瀬は疑問をぶつけてみる。
「ぶっちゃけ、なんだけど」
「はい」
「正直なところ、未だに信じられないんですよ。水神がその、あの頃のことをそんなに大事にしてた、なんて。こんなこと言ったら薄情者みたいですけど、いい思い出の一つであっても、そんな記憶を取り戻す鍵になるようなものだった自信、ないんですよね」
隣の水神が何かを言いたそうにしたが、クリスはそれを制して、
「そんなものです」
「はい?」
「思い出、というのは得てしてそういうものだ、ということです。もちろん、綾瀬様にとってお嬢様との過去が大事でないという訳ではないと思います。ですが、その思い出……ひいては出来事をどう捉えるかというのは人によるものです。だから世の中には勘違いによる片思いが溢れているのです。違いますか?」
「いや……」
違わない、とは思う。でも、
「それ、要するに自分のご主人を「勘違いの片思いをこじらせた人」って言ってることになりません?」
「なりませんね」
断言したよこの人。凄いな。間違いなく駄目な例えだったと思うんだけど。ちなみに隣の水神は全く気が付いていない。これはこれで幸せだな。
クリスはふたたび咳払いをし、
「まあ、それは冗談としても、人の経験において、大事かそうでなかったかはそう簡単に決まることではない、という話です。例えば過去に辛い経験をしたある人が、それを原因に自殺してしまえばそれは全くの無駄だったかもしれない。しかし、それを乗り越えてすばらしいものを作り出したとしたら、それは逆に「辛かったけど素晴らしい過去」なのです」
「ばぁ」
正直なところ、あまり納得したくはなかった。どれだけ未来の成功につながったとしても辛い記憶は辛い記憶であって、楽しい記憶ではない。それは未来によって過去を美化しただけじゃないか。そう言いたくもなった。しかし、
「……つまり、この出会いや、過去のお嬢様との思い出が、いつか綾瀬様にとってもかけがえのないものになる日が来るかもしれない、ということです。だから、今の綾瀬様にとっては重要でなかったとしても気にする必要はない、と思いますよ」
納得するしかなかった。
間違いないことがやはり二つある。
ひとつめは、水神との思い出が確かに楽しいものであったということ。かなり昔のことなので、そこで交わされた言葉や、行われたことの全てを明確に思い出すことは恐らく無理だと思う。けれど、それらが楽しいものであったということに関しては自信を持って肯定できると思う。
ふたつめは、水神と再会してからの期間は間違いなく楽しいことばかりだった、ということだ。時間的距離が近い以上こちらの方がより、自信がある。間違いなく水神と出会ってから綾瀬の日々は変わった。何もない、色彩で例えることも出来ないような日々からは間違いなく脱しつつあった。その終着点がどこなのかはまだ分からないが、今までよりはいい場所に違いない。そんな予感は確かにある。
「つまり、俺との過去が、水神にとってはそれほど大事だったって訳か」
「ええ、その通りです。ああ、最も、」
不敵に、そして余りにも綺麗に笑い、
「別に嬉し恥ずかし初体験を済ませた記憶ではございませんのでご安心を」
とんでもないことを言う。相変わらずシモな冗談を挟まないといけない質のようだった。
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