13.心に灯る、意思の力。
「ただいまっと」
今度は
「ただいま!」
結局、いい案は思いつかなかった。正直なところ薄々そうなるだろうなとは思っていた。自宅まで引っ張ったのもただの時間稼ぎでしかなかったし、ここまで帰ってきたらいいアイデアが浮かぶとも思っていなかった。それでも、結論を先延ばしにした。それで何が解決するわけではないと、分かっていたはずなのに。
綾瀬がリビングに着くと、
「……何見てるんだ?」
水神が何かを興味深そうに眺めていた。あれは……チラシ?
綾瀬は水神の隣に座り、
「それ、どうしたんだ?」
「入ってたのよ。玄関に」
ああ。なるほど。
確かに言われてみれば、綾瀬が扉の前で鍵を探している間、ごそごそと何かをしていたような気がする。郵便、といってもその大半は、そのままゴミ箱へ直行するのが関の山な広告類か、全く記憶にもない友人の結婚式のお誘いかの二択であり、急いで確認すべき連絡物がくることはそうそうないため、最近は郵便受けから取るのも億劫になっていたくらいである。
そんな放置されかけていた郵便物の山から水神が選び取ったのは、
「ああ、ピザねえ」
宅配ピザ屋の広告だった。この部屋に住んでいるのが若い男性だという情報をどこかでつかんだのか、季節の変わり目にはほぼ必ず入っている。恐らくは無差別に入れているのだろうが、未だにその恩恵を受けたことはない。
宅配のピザというのは綾瀬の中でどうも「パーティやちょっとした祝い事の時に頼むもの」というイメージがすっかり定着しているのか、そもそもの選択肢に入っていないことが多く、郵便受けにつっこまれているチラシ類も一応は保管しておくのだが、再び取り出される時には既に期限が過ぎているということが殆どなのだった。つまり、
「そうか、それ、いいな」
悩みに悩んでいた綾瀬にとってはまさに渡りに船、なのだった。
◇
「いやー……食べたなぁ」
「そう、ね」
綾瀬は最近買った「人を駄目にするソファ」とやらに、水神は座布団の上に雑に寝っ転がる。食卓の上には実に適当に食べ散らかされた宅配ピザと、サイドメニュー。それに途中まで飲んで放置されているコーラのペットボトルがそのままになっている。本当は片付けるべきなのだろうが、正直その気力は全くない。
あれから俄然盛り上がった綾瀬と水神は一緒にチラシを眺めながら、あれも食べたいこれも食べたいと意見を出し合い、最終的にはとても二人で食べる量とは思えない注文がノリと勢いでなされていた。
綾瀬も最初は「食べきれないかもしれないから量は考えて」などと至極みみっちいことを考えていたのだが、最後の方には無事に「まあ食べきれなかったらそん時考えりゃいいか」と大雑把な思考に染まり切っていた。
物が届いた時に満ち溢れていた「もしかしたら食べきれるのではないか」という謎の自信は、食べ勧めていく毎にガラガラと崩れ去り。最終的には「まあ、明日があるだろ」という投げやりな思考で、取り敢えず気持ちの赴くままに食べ漁っていた。
その結果が食卓の上に広がりっぱなしの食べ残しと、動くのも面倒になり、寝っ転がってしまったふたりという訳だ。綾瀬はともかく、申し訳程度の座布団しかない為殆ど床に寝転んでいる状態の水神はどうかと思わないことも無いが、本人が至極満足そうなのでよしとすることにしたい。
「ねえ、観月」
「なんだ?」
「満足した?」
「したした。満足した」
「そう。それなら良かったわ」
綾瀬は反動をつけて体を起こす。まだ消化されきれずに残っているものが遡ってきそうになるがそれはぐっとこらえる。
「あー……」
眺める。食卓の上には食べ残しが雑な感じで拡がり、その向こうでは水神が相変わらず天井を見上げている。振りむくようにして窓を眺めればカーテンを閉めることをすっかり忘れていたせいもあって、外の景色が一望できる。流石に隣にビルがあったりはしないが、そこまでいい景色ではない。星空よりは家々の照明の方がずっと自己主張が激しいし、月の明かりより先に目につくのは遠くのビルに掲げられた漫画喫茶の広告の方だ。
「ねえ」
「ん?」
声を掛けられ、綾瀬は水神の方を、
「あ、こっちを向かなくていいわ。と、言うよりも、目を瞑っておいてほしいのだけど……駄目、かしら」
最後はやや消え入るように同意を求めてくる。今更何かを考えるまでもない。綾瀬はしっかりと目を閉じ、
「これでいいか?」
水神が小さな、それでもしっかりと通る声で、
「……ありがとう」
直後。
ごそごそと動く音がする。何をしているのだろう。目を閉じていろ、ということだから当然その動きは綾瀬に見られてはいけないものなのだろう。彼女のことだ、何か良い意味で綾瀬のことを驚かせようとしているはずで、
「……!」
驚いた。
口笛だ。
水神に言われて目を閉じていたから、彼女の正確な位置は分からなかったけど、口笛で分かる。彼女は今、綾瀬の隣にいる。いきなり近い距離で口笛を吹きだすからびっくりした。ただ、それよりも綾瀬を驚かせたのは、
「それって……」
一瞬だけ口笛が止まり、
「覚えてる?……私、が、好きだったやつ」
またすぐに再開する。
覚えているか、と言われれば覚えていなかった。
ただ、おぼろげながら、思い出が輪郭を持ち出していた。
綾瀬の記憶に残る水神はいつも、楽しそうにしていた、と思う。そして、よく、口笛を吹いていた。それが一体何の曲なのかを聞くことはあまりしないようにしていたけど、それでも記憶にははっきりと残っている。この口笛は、彼女一番のお気に入りだったやつだ。
楽しかった。二人で何をしたか、なんてことは正直殆ど覚えていない。ただ、ひとつだけはっきりと残っているのは、彼女と過ごした期間は、本当にすごく楽しくて、
「観月」
「……何?」
何故だろう。口笛が止まる。もうちょっと、聴いていたいのに。
「目を開けて」
綾瀬は言われるがままに目を開ける。視界には数分ぶりの光と、水神の顔があった。ただ、
「あれ……?」
何故だろう。その視界は凄くぼやけて、
「この曲はね、子守唄なの。まあ、子守唄といっても正式な歌詞があるわけじゃないんだけど。だから、」
視界が狭まる。綾瀬は少ししてそれが水神によるものだと気が付く。
彼女が、綾瀬を守るようにして、抱いていたのだ。
「今は、良いの。何も考えなくて。感情を、意思を、大事にして、ね」
「感情……意思……」
考える。思えば感情を表に出す機会なんてずっと無かったような気がする。笑ったり、怒ったりすることが無かった訳じゃない。
意思だってそうだ。自分で何をしたい。そんなことはすっかり忘れ去ってしまっていた。今日だってそうだ。彼女に「観月の好きなものでいい」と言われたのに、たった二食分の「食べたいもの」すら思いつかなかった。ゲームセンターだって消去法で、そこで満足しないと言われたらどうするつもりだったのか。そんなものは思いつきもしない。ここのところはずっと家にいることが多かったのに、何だって出来たはずなのに、それでも何もしないことを選び取ってしまったのは自分の意思で、
「うぁっ……」
「良いのよ。それでいいの」
そうか。
やっと気が付いた。視界がぼやけていたのは涙が出ていたからだ。そんなことにすら気が付かなかったなんて。
泣いた。恥も外聞も女の子の前では強くあらなければならないというみみっちいプライドも、人の前で泣くことは恥ずかしいことだといういつの間にか刷り込まれた
だから綾瀬は、その姿を見つめる”彼女”の表情が、自らを責めるような苦さを含んでいたことに、最後まで気が付かなかった。
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