10.言葉にならない空気を読まない。
結論から言えば、
まず量だが、これは彼女の言う通りだった。
正直、最悪綾瀬が彼女の残した分を食べる覚悟も決めたうえで、最初に頼むライスの量を減らしたのだが、結果的には店員の手間と笑顔と話のタネを増やしただけに終った。綾瀬はおかわりしなかったが、水神はおかわりをした。それも大。それを見ていた店員が、
「お嬢ちゃん。チャーシューと卵どっちが好きだい?」
「チャーシュー、です」
続いて、
「チャーシューだそうです」
綾瀬が代弁する。
「うし」
にこっと笑った店員は手元からチャーシューを一切れ取り出して、水神の丼に入れ、
「おまけ」
水神は軽く頭を下げる。そんな反応を見て満足したのか、店員は綾瀬の方を向いて、
「いや、良く食べるね彼女さん」
綾瀬は取り敢えず「彼女じゃないです」と否定したのち、
「食べますねー……」
感心しつつ水神の丼を眺める。最初に載っていたトッピングは既に無く、麺も八割がた井の中におさまり、後はスープを残すのみという様相だ。店員はしみじみと、
「いや、さ。ホントは君のお連れさんだからサービスしようかなと思ってたんだけど。ほら、そんな食べないかなーって思って。無駄な心配だったね」
「そう、ですね」
苦笑い。
本当に、無駄な心配だった。もう一つ綾瀬の中に引っかかっていた「味が好みかどうか」についても、事ここに至ればもう聞くまでも無いだろう。少なくとも、サービスで貰ったチャーシューも食べ終え、これからスープを飲み干しにかかろうという人間に味が好みだったかなどという問いは全くの具問に違いない。
店員がぽつりと、
「しかし、彼女じゃないってことは……妹?」
綾瀬は首を横に振り、
「幼馴染、ですかね。一応」
「幼馴染かぁ……」
店員はそれで納得したのか再び作業に戻る。店の扉が開いて客が入ってくるのを確認すると、すぐに「いらっしゃい!」と声を張る。切り替えが早い。
綾瀬もいつも通り、丼のスープを飲み干しにかかる。本当のことを言えば、飲み干すつもりはなかったのだ。隣に水神がいるという手前もあるし、ここのところ不摂生が続いているというのもある。控えなければ。そんな涙ぐましい健康思考が働いていたのは事実である。しかし、
「隣でこれやられちゃあね……」
「?」
水神が首を傾げる。その丼は既に空になっていた。理性という感情が、女の子に負けてはいられないという小学生のような意地に塗り替えられていく。
やがて、丼の中身を空にし、
「……いこっか」
「ええ。美味しかったわ」
綾瀬は席を立ち、どんぶりをカウンターの上に戻す。水神もそれにならう。
「ごちそうさまでした」
「……でした」
二人して挨拶をする。店員が、
「いつもありがとね。あ、」
何かに気が付いて、棚をごそごそと漁った後、
「お嬢ちゃん。これ、どうぞ」
水神が受け取る。
飴玉だった。
そういえば女性限定でそういうサービスをしていたような気がする。綾瀬は恩恵にあずかることが出来ないのですっかり忘れていた。
水神は貰った飴玉の感触を確かめるようにころころと手のひらの上で転がしたのち、ぎゅっと握りしめ、
「ありがと、ございます」
そう呟く。その顔は綾瀬には全く見えない。
綾瀬は、いつの間にか並んでいる人の邪魔にならないように、店内を縫うようにして脱出する。いつも思うが、何故ラーメン屋というのはこうも縦長なのだろう。
並びの邪魔にならない位置まで移動し、綾瀬は振り向いて、
「どうだった……って」
「おいひひゃったわ」
恐らくは「美味しかったわ」と言いたいのだろう。飴玉をなめながらしゃべるものだから非常に聞き取りづらい。
水神はもう一度、
「美味しかったわ」
その顔は満足げだった。ちなみに綾瀬と話す場合は相変わらずの調子だ。何故だろうか。あの手の店にはやっぱり慣れていないのだろうか。
「それならよかった。取り敢えず、移動するか」
綾瀬は歩き始める。水神もその後をゆっくりとついてくる。
「正直、さ」
「?」
「俺、最初大丈夫かなーって思ってた」
「何がかしら?」
「いや、あそこで良かったかなぁって。いや、ね。女の子の友人をラーメン屋に連れて行こうとしてすっごい怒られたことがあってさ。それ以来どうも、ね」
水神は「純粋に不思議に思った」という風に、
「前に怒られたのにラーメン屋にしたの?」
返す言葉もない。
綾瀬は弁明する。
「いや、まあそうなんだけどさ。でも、ほら、今回は水神が俺の好きなものがよさそうだったから」
「ええ。
「だからさ、あそこでもいいかなーって思ったんだけど、行ってみて思ったんだよ。脂多めとか、ライス大盛とか、そういうの大丈夫かなぁって」
水神が隣に並び、
「それなら大丈夫よ。これでも結構色んなものを食べるのよ?」
腕を後ろに組み、くるくると回りながら綾瀬の隣をついてくる。
「それでも、さ。やっぱり心配は心配だったんだよ。まあ、杞憂だったけど」
間が出来る。隣を車がゆっくりと通過していく。歩道と車道の境目が曖昧だからか、随分と慎重だ。
「でも、不思議ね」
水神がぽつりと呟く。足に当たった小石がころころと転がっていく。
「何が?」
「その子は、観月にお店の選択をゆだねたのよね?」
「……まあ、一応」
「それなら、怒るのはおかしいじゃない。最初に条件は無かったんでしょう?」
「うーん……」
当時のことを思い出す。あの日の出来事は久我発案だった気がする。一緒に昼食を食べるときは久我が場所を選んでいる。それでは久我自身のストックも尽きるし、綾瀬も面白くないのでないか。綾瀬の好みを知ることが、綾瀬を知ることにもなる。だから、今日は君に一任したい。ただし、どこにしたいかはあらかじめ教えてほしい。たしかそんな運びだったはずである。
「条件……は無かったけど、あれはある程度常識の範囲内でって感じではあったかなぁ、今考えると」
「でも条件は無かったのよね」
「まあ、俺の好みを知りたいみたいな文脈だったと思うし」
水神はきっぱりと、
「じゃあ、怒るのはおかしいわ。元々観月の好みを知りたかったのなら猶更そうよ。おかしな先輩ね」
そう言い切って綾瀬の前へと歩み出る。
確かに。
字面だけを捉えれば全くその通りである。
あの時の久我は確かに綾瀬に一任したし、綾瀬だって決して何も考えずに店を選んだわけではない。好みを知ることが人を知ることにもなる。その言葉を正面から受け取った結果が、行きつけの、女性が一人で行くのははばかられるタイプのラーメン屋なのであって、決して無神経に選択したわけでは無いし、間違っても久我のことを考えていなかった訳ではない。元はと言えば彼女が言い出したのだ。綾瀬の好みを知りたい。
しかし、
「ホントはな。でも、世の中そう簡単にはいかないんだよな、これが」
結果としては完全なる失敗である。
今思い返してみれば、女性と二人で行くのにニンニクマシマシのラーメンはちょっと無いと思う。いくらあの日は午前授業だったとはいえ、家に帰れば人と会話する機会もあるだろう。
一応ニンニクを抜くことは出来るし、そのことも教えたが、問題はそんな所には無いらしい。要は「女性を連れていく店じゃない。あらかじめ知っておいて良かった」とのことである。考えてみれば最初になんの制約もつけずに店を決めさせておいて、後から文句をつけるのはおかしいと思うのだが、大体世の中はそういう「良く分からない暗黙の了解」を維持して回っているもので、それが乱れるだけで怒る人種も確かに存在するのは事実なのだが、
「?」
水神が首を傾げる。間違いなく彼女はそういう事を気にしない類の人種である。本当はその方がずっと生きやすいのかもしれない。
「ま、いいか。水神はさ、」
「ええ」
「さっきの店で良かったんだよな」
「もちろんよ。だってあのお店が観月のお勧めなんでしょ?だったら、文句なんて無いわ」
「そりゃよかった」
綾瀬は苦笑し、小声で、
「みんなこうだと良いんだけどな」
「?」
「何でもない。それより、これからどうする?」
「観月に任せるわ」
即答だった。
さて、どうしたものか。綾瀬は一応、これでも彼女がいたこともあるし、デートだってしたことがある。なんならちょっとこじゃれたカフェや、カップルで行くといいスポットなんかはそこそこストックがあるにはある。その大体が「背伸びしすぎ」か「子供っぽい」という二つの評価に落ち着いてしまうという事実はこの際無かったことにしておく。
ただ、その事実を抜きにしても、今までの経験は恐らく役に立たないだろうという気がしている。なにぶん相手が相手である。少なくとも普通の女の子は彼氏の部屋にピッキング行為で潜入し、服を着替えさせてベッドに寝かせ、あまつさえその隣で自分も就寝を決め込むなどと言うストーカーもドン引きの行為をしたりはしない。
そして、そもそも綾瀬は水神の彼女でもなんでもない。所詮は顔を合わせてもすぐには思い出せない程昔に出会った幼馴染でしかない。だから、分かることも限られているし、何をプレゼントしたら一番喜んでくれるのかは全く想像がつかない。いや、そもそも綾瀬からプレゼントされれば何でも喜ぶのかもしれないが。
それでも、
「……じゃあ、あそこいくか。久しぶりに」
「あそこ?」
ここまで彼女と接してきて、一つだけ分かったことがある。それは、
「そう。あそこ。まあ、行けば分かるよ」
彼女が思ったよりもずっと、”大人のデート”っぽくない場所を好んでいる、ということだ。
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