9.ラーメン並盛(硬め多め)+中ライス

「ここ、かしら?」


「そう、ここ」


 二人して店の看板を見上げる。赤色の看板に、迫力のある文字が躍っている。こういうのを「男らしい文字」というのだろうか。


「らーめん……?」


「そ、らーめん」


 ラーメン屋である。


 正直な所、綾瀬あやせはかなり悩んだ。


 いくら選択権をゆだねられたからといって、やっていいことと悪いことがあるし、「育ちの良さ」が服を着て歩いているような水神みずかみを連れて行ってはいけない店があるのもまた確かである。


 夜の街に繰り出してなどという行為は当然駄目だろうし、なんなら大衆居酒屋に連れ込むのもNGかもしれない。存在は明言されていないが、なにぶん家の近くに人を住まわせているくらいである。今、この瞬間も、誰かが尾行をしていてもおかしくない。お嬢様をとんでもないところに連れ込もうとしているなどと報告されれば、元気に明日の朝を迎えられる保証はどこにもない。


 とはいえ、元はといえば元凶は水神である。彼女が綾瀬に選択権を投げなければあらゆる事態は防げるはずである。そんな言い訳など聞いてくれない相手、という可能性もあるが、取り敢えず普通の飲食店なら大丈夫だろうという決断が綾瀬の中でなされたのであった。


 ちなみにそれらの葛藤をそれとなく、ぼかしながらも水神にぶつけてみたところ、「何をそんなに心配する必要があるの?」と返されてしまった。いや、はっきりと可能性を伝えなかった綾瀬も悪いのだが。


 と、いう訳で、


「いや、まあ、ちょっと悩んだんだけどな。ただ、まあ。俺の行きたい店でいいっていうから、ここにしたってわけ。ここなら、味も保証できるしな」


 そう。


 一番のポイントはそこだった。いくら幼馴染とはいえ、水神は今や(もしかしたら昔も)立派なお嬢様である。それこそ文字通り、普段食べているものの”桁が違う”ということは大いにあり得る。彼女のことなので、全く口にしないとか、器をひっくり返して怒るということは考えにくいが、「口に合わない」という可能性は全く捨てきれない。


 こういうとき綾瀬が「ちょっと値段は張るけどこじゃれたランチを出すお店」を知っていればよかったのだが、そんなストックなどありはしない。以前久我と昼飯を食べにいったときも、お勧めの店として、女性一人ではちょっと入りにくいタイプのラーメン屋に連れて行こうとして大変顰蹙をかったことがある。


 思えば後にも先にも久我が本気で怒ったのはあの時くらいじゃないだろうか。以降綾瀬は、女性と食事に行く際は、基本的に相手に選択を任せることにしている。


 では何故またラーメン屋なのかと言えば答えは簡単で、恐らく水神がそれを望んでいるだろうからである。彼女は完全に綾瀬に選択権をゆだねている。要は「綾瀬の好きなもの」を食べたいのだ。だからここに連れてくるのは正解だし、他に選択肢が無かった訳ではない。決して。


「とりあえず、入りますか」


「そうね」


 綾瀬が店の扉を開ける。ガラガラという音と共に、


「いらっしゃい!二名様ですか?」


 綾瀬は指を二つ立てる。


「二名様ご来店!食券の方お買い上げください!」


 水神が、


「しょっけん?」


 悟る。


 彼女は本気で「食券」というシステムを知らないのではないか。考えにくいことだが、食券制は基本、女性が一人で入りにくい類の店で採用されていることが多い。決してあり得ないことではない。


 綾瀬は食券機を指し示しながら、


「食券ってのはこれで買うんだ。ほら、店で注文したりすると伝票書いたりするだろ?そういう手間や、聞き間違いを防ぐためにあるんだが……まあ、見せた方が早いか」


 財布を取り出、


「まって」


 そうとして止められる。


「それは私が出すわ」


「いや、でも」


「出すわ」


 刺すような視線。これを説得するのはなかなか難しそうだ。綾瀬は諦め、


「分かった。んじゃ、ここにお札を入れてくれ、


「お札……」


 え、まさかそこから?


「お札、持ってないわ」


「マジで?まあ、小銭でも大丈夫だよ」


 水神は首を横に振り、


「小銭も無いわ」


「え、」


「カードしか持たされてないの」


 なんてこった。そんなことがあり得るのか。いや、キャッシュレス化が叫ばれる昨今なら、現金を出来るだけ持ちあるかないようにしているという場合はあるかもしれない。


 しかし、もしそうだったとしても、全く現金そのものを持っていないという人はいないはずである。何故ならこういった「現金しか扱っていない店」が存在するからで、逆に言えば、そういった店に行く機会がある限り、現金を全く使わない生活というのはあり得ないはずなのだ。少なくとも今、この場においては。と、いうことは、


「まさか……現金を使うことって」


「それは流石にあるわ。ただ、今回は、その」


「ああ」


 そうか。


 彼女は記憶喪失なのだ。


 それに加えて、”お父様”からしたら、全く覚えもないような輩と一つ屋根の下なのである。現金より、高額の場合サインを求められるカードの方が安全であると考えられた可能性はある。


 綾瀬は肩をすくめ、


「分かった。んじゃ、取り敢えずここは俺が払っとくよ」


「!それは」


 止めようと手を伸ばしかけ、


「……分かったわ。でも、後でお礼をさせて?」


「ん」


 綾瀬は何事も無かったかのように、慣れた手つきで食券機を操作する。自分の分を購入したのち、


「水神はどれがいい?」


観月みつきのお勧めでいいわ」


 きっぱり。まあ、正直そんな気はしていた。彼女はあくまで「綾瀬の好み」を尊重したいらしい。それならばと思い、同じボタンをもう一度押す。


 食券を買い終わった頃合いを見計らって店員が、


「お水置いときました~」


「あ、どうも」


 手際がいい。綾瀬は買った食券を持って既に水の入ったコップが置かれている席に着く。水神もそれにならい、隣の席にちょこんと座る。綾瀬は食券を店員に手渡し、


「あ、一つ硬め多めで。もう一つは」 


 横から、消え入りそうな声で、


「……観月と同じので」


 店員がきょとんとする。聞き取れなかったらしい。仕方ない。


「自分と同じでお願いします」


 復唱する。店員は少しの間戸惑っていたが、すぐに切り替え


「あいよ。両方並の硬め多めね。ライスはどうする?」


 どうしよう。普段綾瀬がここに来る時は決まって「麺硬め」「脂多め」「ライス大」という組み合わせがお決まりで、今日も本当はそのつもりでいたのだ。水神が綾瀬とまったく同じ注文をするまでは。


 麺の硬さはまあいいだろう。流石に麺の硬さが原因で食べられないなどという人間はそういまい。脂は少し問題だが、これもスープを飲み干すわけではない以上なんとかなる可能性はある。


 問題はライスだ。この店はラーメン類を注文するとライスが無料である。無論食べきれることが前提となるし、ライスだけで粘っていれば流石に店員の目も厳しくなるかもしれないが、基本的には無制限である。ただ、そもそもラーメンを一杯注文することが大前提なので、基本的には多くて二杯ぐらいが限度だろう。綾瀬も基本的には一杯だけ、ただし大盛でというのがもっぱらの定番になっている。


 ところがここで問題が生じる。


 水神である。


 彼女がどれくらいの量を食べるのかは分からないが、その小さな身体からしてまさか綾瀬よりも大食漢と言うことはちょっと考えにくい。いくらラーメン自体が並盛とはいえ、そこにライスを大盛で付けたら食べきれないのではないか。そんな可能性が頭に浮かぶ。


 ということで、


「えっと中で」


 やはり隣から、


「私も同じで」


「同じで」


 先ほど同様、綾瀬が復唱する。店員はもう慣れたといった具合に、


「あいよ。中二つね」


 注文を受けた店員が作業に戻る。いつ見ても手際が良い。やがて綾瀬は小声で、


「大丈夫なのか?」


 水神に確かめる。当の本人は何事も無かったように、


「何が?」


「えっと……いや、ほら、だって」


 水神はああ、と納得し、


「量なら大丈夫よ。私、これでも結構食べるから」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る