7.メイドさんが一晩でやってくれました。
「記憶喪失……って、あの?」
幼馴染はくすりと笑い、
「あの、も何も、記憶喪失は記憶喪失よ。ただ、そうね……私の場合は全ての記憶が消えてなくなってしまったって訳ではないわ。日常生活は何の問題も出来るし、基礎知識とか、そういうものは無事なの。ただ、生まれてからここまでの何て言うのかしら……思い出みたいなものが殆ど思い出せない。そんな状態、という訳」
事は思っていたよりもずっと重大だった。
「それは……治るものなの?」
「基本的には時間が経てば治ることが多いそうよ」
即答。
「ただ、それはあくまで過去の事例でしかないわ。だから、お父様はお医者様に聞いたの。どうしたら思い出すことが出来るだろうか。そのきっかけを与えることは出来ないだろうかって」
一呼吸。
「そしたらお医者様は言ったそうよ。彼女……つまりは私にとって、強い思い入れのある出来事や人物。それらがきっかけになることはあるかもしれないって。それを聞いたお父様は私の教育係に聞いたわ。何か心当たりはないかって。そしたら彼女は迷いなく答えたの。お嬢様は昔仲良くしていた少年の話を今でも時折する事がありますって」
綾瀬は話を受けるように、
「それが俺……ってこと?」
首肯。
「そこから準備が整うのは早かったわ。周りの人は結構反対したみたいだけど、お父様は聞かなかった。あなたの情報を出来得るかぎり集めて、本当に私を会わせていいかどうかを判断した。このアパートに、いざというときの為に人も住まわせていたみたい。」
「……あー……」
思い出す。
言われてみれば、ここ最近人の出入りが多かったような気はする。
綾瀬が住んでいるこのアパートは、二階建てでそれなりの人数が生活をしているとはいえ、築年数や家賃の関係もあって、大体は学生かフリーターの一人暮らしという塩梅なのだ。間違っても高級そうなスーツを着た人間が、どこぞの重役が乗っていそうな高級車で乗り付けてくるなどという事が頻発するはずは無いのだ。正直、借金取りか何かではないかと思っていた。それもカタギではない類の。
綾瀬は疑問をぶつける。
「ってことはさ」
「何かしら?」
「もし、そうだな……俺が君を、その、襲ったりとかしたら……?」
「無力化できるだけの人員は配置してある……って聞いているわ」
「む、無力化……」
幼馴染はさらりというが、それはつまり、まかり間違って乱暴など働こうものなら、綾瀬の身に何が起こってもおかしくないということではないのか。
そんなことは無いと思いたいし、あり得ないことのはずなのだが、なにぶん、昨夜から今日にかけて起きた出来事が既にかなり常識外だ。更にもう一つくらい常識から外れたことが起こってもなんら不思議ではない土壌がここにはあるような気がする。
彼女との記憶も、あくまで「二人の間」のもの以外は全くもって正確ではない。その後大分時間も経過している。彼女には申し訳ないが、正直なところ、今の今までその存在を忘れていたくらいだ。家庭環境がどうなっていて、彼女の危機に一体どういう対応をするのか、どれだけの”力”を有しているのかについては、正直全く想定出来ない。
一応、彼女の家は常識的な範囲で普通に大きかったという気はするのだが、それだって全てを映す万能の鏡ではない。今、保証が出来るのは、目の前にいる彼女が、恐らくは幼馴染だろうということくらいのもの、なのだ。
幼馴染はそんなことは全く気にもとめずに続ける。
「それだけの状況を整えた上で、私と教育係の二人であなたを探しに来たのが昨日……正確には今日ね。今日の深夜」
「今日の……」
綾瀬は言葉に詰まる。当たり前だ。綾瀬の記憶は概ね、
最初から最後まで歩いて家までたどり着いたのか。それともタクシーを使ったのか。はたまたネットカフェで時間を潰した上で始発の電車に乗って帰ってきたのか。全ては闇の中である。だから、
「なあ」
「なあに?」
「俺、昨日……ほら」
「ああ」
幼馴染は合点がいったという感じで、
「酔ってたわね。ものすごく」
「だよな。んで、さ。俺正直、あんまりはっきり覚えてないんだ、昨日から今日の深夜にかけてのこと。そりゃ、こうやってきちんと着替えて寝てたんだから、問題なかったはずなんだけど、」
幼馴染がさらりと、
「着替えならクリスがやってくれたわよ?」
「え、クリス?っていうかやってくれたって……」
「あ……えっと、クリスっていうのは教育係のその、愛称。流石に私じゃなにも出来ないから、殆どのことは彼女がやってくれたの」
「いや、それはまあ分かるけど……え、殆どのことはやってくれたって?」
「殆どは殆どよ。ここに来るまでの車を運転してくれたのも、貴方を背負って部屋まで連れてきたのも、鍵を開けてくれたのも、服を着替えさせてくれたのも」
「ストップ」
綾瀬が手で制する。幼馴染は「どうして止めるの?」とでも言いたげな顔で首を傾げる。いや、止めるだろう。そりゃ。
「なんか色々突っ込みどころがあった気がするんだけど……え、着替えさせたって?そのクリスって人が?」
「ええ」
「俺を?」
「そうよ」
綾瀬は思わずズボンに手を当て、ずり下げようとしてやめる。そんな動きを見ていた幼馴染は、
「ああ、全部変えてたわよ」
「あ、ああ、そう、なんだ」
行き場を失っていた手を両膝の上にしっかりと乗せる。顔には「取り敢えず作ってみました」という感じの笑顔が浮かぶ。何かを気にするようなことではないのは分かっているのだが、何となく居心地の悪さを感じる。どこにやったらいいんだろう。この感情。
綾瀬は絞り出すように、
「じゃ、じゃあさ。えっと、二人はこの部屋に入ったって事だよね。昨晩」
「ええ」
「どうやって入ったの?俺の持ってた鍵でも使ったの?」
幼馴染は首を横に振り、
「そんなことはしないわ。人の懐をまさぐるなんて」
勝手に人の服を着替えさせるのはいいのか、という問いはこの際脇に置いておこう。
「じゃあ、どうやって」
「それは当然、クリスが開けてくれたのよ?」
「いや、開けてくれたって……どうやって?」
「分からないわ」
「え、なんで?だって一緒にいたんでしょ?」
「ええ。だから彼女が鍵を開けてくれたのは知ってるわよ。でも、どうやったのかは分からないわ」
「何で」
「だって、早業だったから」
「早業……」
瞬間。
綾瀬の頭に嫌な可能性が浮上する。恐らく、間違ってない。
「それって、さ。所謂ピッキングじゃないの?」
幼馴染は依然「私は何も知らないわ」という表情で、
「分からないわ。ただ、カチャカチャってやってたら、いつのまにか開いたわ」
間違いない。
そのクリスという女性は綾瀬宅の鍵を、ピッキング行為をして開けてみせたのだ。深夜で、人通りが多くなかったとはいえ、流石に熟睡状態の男を一人抱えた状態で長時間居座っていたら、誰かに見つかった可能性は高い。彼女の表現からしても、そこまで時間がかかったとは思えない。いくら築年数だけが取り柄の、防犯意識など欠片もないアパートとはいえ、そんな簡単に開けられるものなのだろうか。
「で、クリスはあなたを寝かせた後、最初に着ていた服を洗濯して、帰っていった、というわけ」
「帰っていったって、一緒にはいなかったのか?教育係なのに」
幼馴染は笑って、
「形だけよ。教育係は。どちらかといえば私専属のメイド、といったほうが正しいわ」
「メイド……」
「そうよ」
メイド。正直出てくるかなとは思っていた。娘一人の記憶を取り戻す為に周辺に人を住まわせるほどの家庭だ。家事手伝いとして、メイドの一人や二人いてもおかしくないような気はしていた。しかし、本当にいるとは。
「だから、まあ。ずーっと私についていたりはしないのよ。今日は……」
言葉を切り、
「……記憶を取り戻すだけだから。私だけここにとどまった……って訳」
なんだろう。今何かを言おうとしなかったか?今日は?
綾瀬は疑問に思いつつも、
「で、記憶は戻った?」
幼馴染は首を横に振り、
「ううん。流石に、まだ。せっかく、一緒に寝てみたのに、効果が無くて」
ああ、あれにはそんな理由があったのか。綾瀬は完全にお嬢様の気まぐれみたいなものだとばかり思っていた。どうやら記憶を取り戻す為に必要なことだったらしい。とてもそうは思えないが。
「それじゃ、どうするの?俺に会うことで記憶が戻るかも……ってのが、そのお医者様の話だったんだよな?」
「ええ。ただ、会うことだけが手がかりじゃないわ」
「と、言うと?」
「お医者様が言うにはね、強い思い入れがある出来事もまた、記憶を戻すのには重要なんだって」
「強い思い入れ……具体的には?」
「そうね。例えばある遊園地に行くのが好きな女性が記憶喪失になったとするわよね?そうしたら、その女性をそこに連れていく。そして、その女性が好きだったアトラクションや、ショーを見せるの。そうすることで回復することがある……って言ってたわ」
なるほど。言いたいことは分からないでもない。要は好きだったモノに触れることで、記憶が戻るという話だ。しかし、
「じゃあ、その思い入れがある場所?に行った方がいいんじゃないか?俺に会っても記憶は戻らなかったんだろ?」
幼馴染は首を横に振り、
「いいえ。その必要は無いわ」
「なんで?」
「だって、私にとって思い入れのある出来事もまた、あなたに関係しているから」
「え」
「クリスが言うの。私が一番楽しそうだったのはあなたと一緒にいた時……一緒に遊んでたときだって。だから、どこに行くか、よりも、あなたと一緒にいることが大事、だと思うの」
そう言って幼馴染は微笑む。その笑顔は完璧だった。あまりにも完璧すぎて、見逃しそうになる。その奥に隠れる、一抹の不安を。
綾瀬は一つ大きく息を吐き、
「まあ、いいや」
「?」
正直、思う所が無い訳ではない。
目の前にいる彼女は自分のことを、綾瀬の幼馴染だと主張しているし、単純に事実を並べていけば「記憶を取り戻す為に幼馴染の家を訪ねて、一緒に遊ぼうと誘いに来た」ということになる。正直、幼馴染を抜きにしても、自分と遊ぶことで記憶が戻るというのであれば、その手助けくらいはしてあげたいとは思う。
ただ、それはあくまで純粋に彼女個人を眺めた場合の話だ。
周辺にも視線を向けてみれば、彼女のメイドはこの部屋にピッキング行為で侵入しているし、アパートには彼女の父親が配置した人員が今も息を潜めているということになる。彼女自身は明言していないが、盗撮、盗聴の類はあっても全く不思議ではない。いくら記憶を戻すためとはいえ、娘の幼馴染にやることとしてはやや……いや、かなり度が過ぎている。そんな気も確かにするのだ。
でも、
「俺と一緒に……遊ぶ?んだろ?いいよ。俺にも出来ることと出来ないことがある……まあ出来ないことばっかだろうけど。それでも良ければ協力する」
目の前にいる彼女の目。そこに混ざる不安と困惑。綾瀬にはそれを見なかったことにするのはなかなか難しかった。
綾瀬は手を差し出し、
「えーっと……ゴメン。名前、何て言うんだっけ」
幼馴染は全く気にもせずに、
「あら。まあ、子供のころ以来だものね」
差し出された手を取り、
「私は
ぶんぶんと振る。決して大きくは無い体からは想像がつかないほどの力強さだ。綾瀬は一応「よろしく」と言ったつもりだが、かき消されてしまった。
やがて、水神は満足したのか、
「それじゃ、何をしましょうか?」
疑問を投げかけてくる。
何をしようか。何とも雑な質問だ。通常こんな質問を投げかけるのは考える気がないやつだと相場は決まっている。自分は考えたくない、責任を取る気はない。しかし目の前に横たわっている暇だけは気に食わない。だから目の前にいる人間に取り敢えず投げかけてみるのだ。何をしようか?
ただそれは、あくまでマジョリティにすぎない。マジョリティは所詮、マジョリティでしかない。要はそれ以外の稀有な例が存在しているのだ。そして、水神は間違いなく後者に違いない。彼女は純粋に選択権をゆだねているのだ。これからやることを綾瀬に決めてもらう。それが最善策だと言わんばかりに。
「取り敢えず……」
「ええ」
「着替えて、飯でも食べに行こうか」
綾瀬は苦笑する。水神は綾瀬の服装をじっと眺め、「あら」と声を上げる。お互い、起き抜けであることをすっかり忘れきっていた。
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