6.拙くなってクリエイター。

 やっぱりまだ夢の中にいるのではないだろうか。


 ベッドの中にいつの間にか潜り込んでいた女の子を起こし、取り敢えずの事情を説明し、「着替える」などということは思いつきもしないままリビングへの移動を促し、ゴミと私物の中間に位置するものたちを纏めて部屋の隅に寄せ、ぽっかりと開いたスペースに、買ったはいいもののすっかり置物となっていた来客用の座布団を置いて女の子を座らせ、自らはテーブルを挟んで反対側に正座をする。


 そんな一連の流れの中で、綾瀬は何度も自らの頬をつねった。


 まさかこんな手段に頼るような出来事に遭遇することがあるとは微塵も思っていなかったが、実際にやってみるまで、これがいかに無意味な行動であるかも全く知らなかった。漫画やなんかで一度頬をつねって「夢じゃない」と納得するシーンをよく見るが、今になってみると思う。あんなものは幻想でしかない。


 自分の頬をつねって痛かったとして、それが何を保証してくれるのか。その「痛い」という感覚もまた、自分が作り出したものではないか。もし仮に、その痛みが現実であるということを保証してくれるとして、それを自分が信じられるのとはまた別問題だ。


 要するに綾瀬は「頬をつねってみたら痛かった」というあまりにも単純で明快な事実が未だに受け入れられず、


「あの」


「はい!」


 思わず背筋が伸びる。両手は正座した自らの膝の上にきっちりと添えられる。それだけ見ればこれから叱られるかのようにしか見えない。対面に座っているのが、ともすれば綾瀬よりも年下に見える女の子でなければ、の話だが。


 腰ほどまで伸びた金髪がきらりと光る。いくつかの編み込みがちらりと揺れる。身に纏ったワンピースからはどことなく上品な香りがする。と、言うか私服のまま潜り込んでたのかこの子。


 女の子は綾瀬の反応に少し驚くも、


「綾瀬観月……さん、で良いわよね?」


「…………ええ」


 悩んだ。目の前にいる女の子が何を考えているのかが全く分からない状態で名乗ってしまってよいものなのか。取り敢えず適当な偽名でお茶を濁しておくべきなのではないか。そんな悪あがきに似た思考がひょっこりと顔を出していたのは間違いない。

 ただ、現状女の子からは全く敵意を感じないし、もし何かの罠であるのならば、こうやって対面するような時間は無いはずである。それ以前にそもそもこうやって部屋に入り込まれている時点で手遅れ、という可能性も無くはないが。


 綾瀬の返事を聞いた女の子はぱあっと顔を明るくし、


「良かった。また会えて」


「え」


 まて。今彼女は何といった?また会えて。と、いう事は少なくとも一度は、


「探したのよ?ほら、連絡先なんて交換したりしなかった……ううん、そんなこと出来なかったから、あの時は」


 あの時。またとんでもないワードが飛び出した。あの時、というからには当然過去の一地点を指し示しているはずである。ところが、綾瀬には全く覚えがない。ただ覚えがないだけならば良いのだが、目の前にいる少女ははっきりと覚えているらしい。これはいけない。


 綾瀬は取り敢えず口から出てきましたという感じで、


「あ、ああ……」


 女の子は部屋の中を見渡しながら、


「この部屋にはなさそうだけど……今もまだ”かいている”のかしら?もしそうだったら是非見たいのだけど……」


「かいて……」


 何気ないフレーズが綾瀬の記憶にかする。かいていた。口頭なので漢字は分からないが、どちらにせよ綾瀬には覚えがある。まだずっと子供の頃だ。文章も、絵も、見様見真似で”かいて”いた時期が確かに存在していた。凄く昔の、もうどこか別人のものにすら感じられる、遠い、遠い記憶。


 綾瀬はぽつりと、


「もう、やってないよ」


「ん?」


 女の子の視線は未だに、何かを探すように彷徨い続けている。座った場所から動いたり、勝手に棚を開けたりしないのは育ちの良さを感じなくもない。綾瀬は続ける。


「もう、やってないんだ。そういうのは」


「そういうのって……もう、書いていないの?小説」


 そうか。小説。ようやっと引っかかる。


「うん。まあ、書いていた……っていっても、子供のお遊びだったと思うけどね」


 突然。


「そんなこと無いわ!」


 女の子が声を荒げる。彼女は自分自身の発した声に驚くように口に手を当てて、トーンを落とし、


「……そんなこと、無かったと思うわ。少なくとも私が覚えている限りでは」


 思い出した。


 確かあれは小学校も中学年くらいのことだったと思う。当時綾瀬の両親はとても忙しく、綾瀬の面倒を見ている暇が無かった。時折近くにいた祖父母の家に預けられた記憶もあるが、両親も遠慮したのだろう。家で一人、という時間も長かったと思う。

 あの日もそんな何気ない一日。そのはずだった。


 綾瀬はいつも通り学校に行き、授業を受け、給食を食べ、再び授業を受け、友人と遊んでから帰ってきた。それでも両親よりも帰宅が早いのは分かっていたし、鍵を開けて家でゆっくりとゲームでもする。


 つもりだった。


 家の前にくるまでは。


 家の前まで来て気がついた。


 鍵がない。


 綾瀬家は誰が一番に帰宅するかが安定しないこともあって、各人が鍵を持ち歩く習慣がしっかりとついていたし、綾瀬自身もそれに慣れていたこともあって、どこか油断していたのかもしれない。家に鍵を忘れてきてしまったのだ。


 どうしよう。マンションなら最悪大家に泣きつくという方法が無いわけではないが、幸か不幸か綾瀬宅は立派な一軒家だ。祖父母の家も近いとはいえ電車で数駅くらいの距離がある。車や電車を使えば訳ないが、所持金ゼロの中学生がひとりで目指すには少し、いや、かなり厳しいものがある。


 田舎であれば隣近所は顔見知りかもしれないが、都会であればそうもいかない。もし仮に付き合いがあったとしても、当時の綾瀬には知る由もない。万事休す。最悪学校にとんぼ返りするか、ここでずっと待っているか。そんなことも考え始めた時だった。


「どうしたの?」


 びっくりした。


 びっくりして口から心臓やその他諸々が飛び出てくるかと思った。


 まさかあんなタイミングで話しかけられるとは思っていなかった。もしかしたら何か悪いことをしようとしてると思われたのではないか。あの時はそう思って、振り返って頭を下げようとすら考えていたと思う。


 ただ、結論から言えば頭は下げなかった。振り返った時点で気が付いたのだ。声をかけてきたのは、大人でもなんでもないと。


 女の子だった。背格好は……確か綾瀬と殆ど同じくらい。それ以外の特徴と言えば、髪の色が珍しいなと思ったくらい。何色だったかは覚えていない。けど、それなりに見る色ではあったと思うから多分金髪だったんだと思う。彼女は隣家に住んでいた同世代の女の子だった。綾瀬とは違い、遠くの私立に通っていたため、その時までは存在すら知らなかった。綾瀬が事情を話すと女の子は笑って、


「そんなことで泣きそうになってたの」


 泣きそうにはなっていなかったと思う。


 それでも助かったのは確かだった。


 綾瀬は無事、隣家に避難をし、両親の帰宅を待つ。話はそれで終わりのはずだった。


 ところが、そうは行かなかった。


「これ、何?」


 気が付いた時には手遅れだった。たまたま綾瀬の鞄からはみ出ていたノートを女の子は手に取っていた。ノートはノートでも授業のノートではない。綾瀬がこっそりと書いていた「メモ以上小説未満のなにか」でびっちりと埋め尽くされたノートだった。


 学校で取り出すことはほぼない。別に両親に見られたって何の問題はない。それでも綾瀬は何故か、一度も取り出しすらしないそのノートを、誰にも見られないように隠した上で、律儀に学校に持って行っていた。今考えればあれはお守りのようなものだったのかもしれない。


 女の子はぺらぺらとページをめくる。綾瀬はなんとか翻意を促そうとするが、全く聞いてくれない。妹や、同級生の男子ならともかく、今日出会ったばかりの女子に強く出ることも出来ず、しまいには床に正座するしかなかった。床が冷たい。一方で体の中はどこか熱い。不思議な気持ち。


 やがて女の子が一つ。


「凄いね」


 純粋な感想だった。信じ切れなかった綾瀬は手を変え品を変え”本音”を聞き出そうとした。だが、一向に彼女の意見は変わらない。彼女は終始、綾瀬のことを褒めていた。自分の書いたものが褒められる。初めての経験、だった。


「…………ほめようとしてくれるのは嬉しいけど。あれはやっぱり、子供のお遊びだったと思うよ、でも」


 女の子が何かを言おうとする。綾瀬はあえて遮るように、


「……でも、それを凄いって言ってくれた。それは嬉しかった……と、思う」


 一息置き、


「あの時の……隣の家の……だよね?」


「ええ」


 即答。女の子改め幼馴染は満足げに、


「確かに、小さいころに書いたものなんて、あなたにとってはささいなもので、もう内容なんて忘れてしまったのかもしれない。でも、」


 息をのみ、


「あなたの書いた小説は確かに面白かった。それだけは覚えているわ」


 ふわっと、微笑む。完璧な笑顔。それこそこんな状況でなければ一目惚れ出来そうなほどに。


 綾瀬は申し訳なさそうに頭を掻きながら、


「っていっても、今は書いてないんだけどね」


 いつだっただろう。小説を書くことをやめたのは。少なくとも中学校くらいまでは書いていたはずなのに。


 幼馴染は「そんなことは全く気にしていない」といった風に首を横に振り、


「いいのよ。そんなこともあると思っていたから。それに、何も私はそれだけの為にここに来たわけではないの」


 そこで言葉を切る。今までまっすぐ前だけを見続けていた視線が揺らぐ。やがて何かを吹っ切るように、


「実はね……私、記憶喪失なの」

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