5.忘れることは幸か不幸か。

 ある日。


 今よりもずっとずっと昔のことだ。


 綾瀬あやせがすっかり仲良くなったお隣の女の子と遊んでいた時だったと思う。彼女が全く耳に覚えの無い口笛を吹いていたのに気が付いたのだ。


 別に珍しいことじゃない。綾瀬は彼女のことを、自分よりもずっと賢いと思っていたし、ずっとずっと色んなことを知っていると思っていた。だから、彼女が綾瀬の知らない歌を歌っていたとしても全く不思議じゃない。あんまり正確には覚えていないけど、これより前にもそういうことはあったと思うし、その時はそんなに気にならなかった。


 だけど、その時は不思議と気になった。


 理由は簡単。彼女はやけにその”歌”がお気に入りだったから。


 だから綾瀬は聞いた。その歌、よく聴くけど、何の歌?って。


 聞かれた彼女は最初戸惑った。綾瀬の知る限りそんなことは初めてだった。やがて彼女は決心して、


「ちょっと待ってて」


 それだけ告げて、部屋を後にした。どうしてだろう。彼女でも知らないことがあるのかな。綾瀬は不思議に思った。


 少しして、彼女がやや困り顔で戻ってきて、


「お父さんに聞いてみたの。そしたらね。どこかの国の民謡、なんだって。細かいことはお父さんも覚えてない……って」


「そう、なんだ」


 あの時は確かに「ここでガッカリしちゃいけない」と本能的に悟って、出来るだけ表情に出すまいと思って頑張ったと思う。だけど、今思い出してみると、がっかりした雰囲気を出してしまったような気がする。そのせいかは分からないけど、その日はずっと気まずい感じだった。


 結局、あの時の口笛が何という曲だったのか、正確なことは教えてもらえなかった。ホントは聞き出すことも出来たとは思うのだが、彼女が望んでもいないのにそんなことをするのは良くないと思い、最後までやらなかった。


 だけど、その時以来、その口笛は何となく綾瀬の頭に残り続けている。いつだったか、ラジオで「鼻歌や口笛でなんの曲かを探し当てる企画」があったときには割と本気で応募してみようかなとも思った。だけど、それはしなかった。彼女が語らなかったのだから、知るべきじゃない。そう、思ったのだ。



                ◇


 眩しい。


 目が覚めたのはそんな簡単なきっかけだった。


 綾瀬はゆっくりと目を開ける。そこに広がっているのは公園の夜空でも、タクシーの車内でもなければ、どこか見知らぬ寒空でもない。築数十年が経ち、消そうとしても消しきれない染みが目立つ、自室の天井に他ならなかった。


 どうやら、あの後きちんとこの家まで帰り着いたらしい。


 らしい、というのは冗談でも何でもない。なにせ綾瀬は、昨夜から今にかけての出来事を半分も覚えていないのだ。

 

 一応、日が変わるまでのことは自信がある。


 しかし、それ以降に関しては全くのうろ覚えである。


 綾瀬の記憶が正しければ、途中までは久我くがと一緒だったはずである。ああ見えて存外ドライな彼女は、どう考えても強がりでしかない綾瀬の「大丈夫」を免罪符にして、一駅分の距離を一緒に歩いただけで自分の家へと帰ってしまった。綾瀬とは別れを告げて。そこまでは何となく覚えている。


 問題はそれからだ。正直余り自信がない。途中のコンビニで買い物をしたような気はするのだが、それ以降は余り記憶にない。そして極めつけが、


「着替えたっけ……?」


 これである。


 綾瀬が昨夜着ていたのはスーツとコートであって、間違ってもパジャマではなかったはずである。しかも今着ているこれは、ここのところ冷え込んできていたので、取り敢えず引っ張り出したは良いものの、まだ着るには至っていなかったものだ。昨日まで急場しのぎに使っていたジャージでは間違いなく、無い。起き上がらずに見える範囲を探してみたが、そんなものはどこにもない。代わりに、


「……あんな、綺麗にしたっけ?」


 コートである。汚れどころかしわ一つないそれは、一見すると余り見覚えが無いような気もするのだが、よくよく眺めていると、確かに昨日着ていたものだ。あんなに綺麗な状態になっているのなんて、それこそ買った時以来ではないだろうか。


 昨晩吐瀉物を引っかけたかどうかも余り定かではないが、それを除いてももう少し汚かったと思う。


 新しいのを買う気は起きず、かといってクリーニングに出すのも面倒で、なし崩し的に使われていた、お世辞にも「綺麗」と言えないものだったはず、なのだ。少なくともこのままコート売り場に並んでいても違和感のないようなレベルでは無かったと自信を持って言える。明らかにおかしい。ちなみに一緒に着ていたはずのスーツは、コートの内側にちらりと見えていて、こちらもやはり違和感しかない綺麗さである。


 「どういうことだ……?」


 分からない。記憶が曖昧な分、いくらでも説明が出来るような気もするし、どうやっても説明がきかないような気もする。時折訪れては洗濯や掃除といった家事をやり、嵐のように帰っていく妹が来たという説明も出来なくはない。


 しかし、それならば自分を寝かせて、そのまま帰るというのは考えにくい。それに嵐のようとは言えども一応、前日、最悪でも当日の朝には連絡を寄越してくる。鍵は持っている(いつのまにかスペアを作ったらしい)為、出入りは簡単だが、その辺りの礼儀はわきまえているはずで、少なくとも勝手に部屋に入って、スーツをクリーニングして、そのまま何も言わずに帰っていくというのはちょっと考えづらい。


 それに、妹も家事は上手だが、流石にあそこまで仕上げるのはプロに頼まなければ不可能だ。昨日綾瀬が帰ってきた後に洗濯をし、ちょっとアイロンをかけましたというレベルのクオリティではない。従って妹、という線はないだろう。


 同様の事が母にも言える。母はここまでやってくるほどの事はあまりしないが、無いとは言い切れない。しかし、妹同様、ここまでの仕事を何も言わずにやり、起きる前に立ち去るというのは正直考え難い。従って母という線もなしだ。


 では、誰が。


「んん…………」


 綾瀬が身内以外に可能性を広げたその時だった。


 声がする。


 それも近くからだ。


「ふふっ……」


 まただ。


 やはり声は近くから聞こえてくる。どうやら犯人(?)はまだ近くにいるらしい。まあ、わざわざスーツとコートを綺麗にクリーニングした人間が敵意を持っているとは考えにくいし、そのまま去っていくとも思いづらい。大方何か意図があってやったことなのだろう。


 綾瀬が頼んだものでなければそこに料金など発生するはずもないが、残念ながらその自信がない。何分昨夜からの記憶がぽっかりとどこかへ行ってしまっているのだ。その間に、いい気分で何かをお願いした可能性は捨てきれない。


 取り敢えず声の正体を探ろう。


 その為にはまず、起きなければならない。


 綾瀬はそう思い、布団から出、


 むにゅ。


「…………むにゅ?」


 何だろう。


 明らかに何かに当たった。


 真っ先に思いつくのは犬や猫だが、あいにく綾瀬はそういった類の生き物を飼っていないし、そもそもこのアパートはペット類が一切禁止である。


 では、何か。


 抱き枕の類は一切持っていないし、通常の枕は頭のあたりから一切動いていない。湯たんぽのようなものがあればちょうどこんな感覚なのかもしれないが、あいにくそれも使ったことはない。そして、綾瀬にはどうも人工物であるような気がしない。


 息をのむ。


 ごくりと喉がなる。


 覚悟を決めろ。どうせ、大したものは出てきやしない。大丈夫。なんとかなるさ。

 慌てふためく脳をどうにか説得し、綾瀬は頭の中で「3、2、1」と数え上げ、「0」のタイミングで掛布団を一気にめくる。


「………………は?」


 固まった。


 固まってしまった。


 それもそのはずである。いくら覚悟を決めたとはいえ、せいぜい変な生き物がいるとか、見覚えのない野良犬、野良猫が暖を取っているとか、或いはもっと単純な話で、実はやっぱり妹だったとか、そういう「分かりやすい結末」を頭に思い描いていたのは確かである。


 簡単に言えば「深い所で油断していた」のだと思う。


 しかし、


「はぁーーーーーーーーー!!!!!!!!!?????」


 いくら「深い所でも覚悟を決め」ていたとしても、予想は出来なかったと思う。

 女の子が一人、出てくる、なんて。

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