3.ミルクティー買ってんじゃねーよ!

「ありぁとぅござましたぁー」


 イマイチやる気の感じられない気の抜けた挨拶に送り出され、綾瀬あやせはコンビニを後にする。手元の袋には100円均一のセールをしていた中華まん。そして、コートのポケットにはホットのミルクティーがごろごろしている。


 結局、久我くがとは本当に隣の駅で別れることになった。


 確かに、そこまで期待していなかったのは事実である。彼女の性格を考えれば、綾瀬が手持ちの金も、銀行口座の金も全くなく、タクシーを呼んだとしても払う金が無いような状況でさえ、手を貸してくれない可能性は高いと見ていた。


 もちろん、調子に乗って酒を飲んだのも、しっかりと吐いてしまったのも、そのお陰で今余り体調そのものが良くないのも、終電を逃してしまったのも、タクシーを呼ぶと、今後の生活に支障が出るほど困窮してしまっているのも、元を正せば綾瀬が全面的に悪いのであって、久我にはそれを助ける義理も義務も全くない。


 しかし、しかしである。一人暮らしの狭い部屋で、人を泊めるのもはばかられるというのならまだしも、久我がこれから帰ろうとしているのは実家である。綾瀬は一度だけ近くまで行ったことがあるから知っているが、人一人を泊めるくらいなら訳の無い大きさだったと記憶している。


 もし客間が使えないとしても問題は全くない。正直、始発までの時間、それなりの暖かさのある場所で過ごせればそれでいい。「家で時間潰していく?」。その一言があってもいいんじゃないのかと思ったり思わなかったりするのだ。


 実際、話をそっちの方向に持っていこうと努力もしてみた。ただ、何度やっても暖簾に腕押し……どころか押した以上の力で猛反発を食らった。明らかに話題を逸らすのだ。最後の方は綾瀬も察して、諦めてしまっていた。そうだよな。元・同級生とはいえ、いきなり男が家に泊まるなんて駄目だよな。きっとそうだ。


 そんな訳で綾瀬は、きっちり電車一駅分を歩いた後、久我と別れ、再び大通り沿いを歩いていたのだが、これが思ったよりもきつかった。何分、オーバーペースで酒を飲みまくった後である。いくら胃の中身を吐ききったとしても、飲みすぎたという事実は拭い去れない。


 早い話がかなり体力の消耗した所からのスタートだったのだ。加えて今は十二月。温暖化だの異常気象だのといっても、この時期になれば気温はそれなりに下がってくる。特に今日は特別冷え込む予報で、例年で言えば二月並の寒さらしい。ところが綾瀬は、朝の時点で「どうせそんなに大したことは無いだろう」とたかをくくっていた。


 家を出る時点ではそこまで冷え込んでいなかったのもまた確かで、普通ならば全く問題は無かったのだが、残念ながら今日に関して言えばその限りでは無かった。天気予報のお姉さんはしっかりと「今日の夜からぐっと冷え込み、クリスマスイブ付近までは一段と寒くなるでしょう」と言ってくれていたのだが、そのありがたい忠告は残念ながら綾瀬ではなく、食卓に置きっぱなしになっていた食器に向けて語り掛けられていた。


 結果として綾瀬は、「例年の二月並」とか「この冬一番の」と形容される寒さを耐え忍ぶには余りにも物足りない服装を選んでしまったのだ。


 と、いうことで、


「やっぱ肉まんだよな、うん」


 コンビニに寄り、温まれるものを買った、というわけなのだった。


 いや、本当はそんなつもりは無かったのだ。久我と別れてから暫く歩いた後、「流石に全ての距離を歩いて帰るのは無理がある」と悟った綾瀬はタクシーに乗ろうと決心したわけだが、残念なことに綾瀬は殆ど現金の持ち合わせが無かった。


 クレジットカードは家に置いてきてしまっているし、残る手段はやはり銀行から引き出すことだが、この時間となれば当然銀行など空いているわけもなく、仕方なくコンビニのATMで下ろすことに決め、めぼしいコンビニにたどり着き、ATMにキャッシュカードを差し込んだ。


 そこまでは良かったのだ。


 問題はそこからだ。


 手数料がかかるのはまあ仕方ない。どんなにかかったとしても三桁だろう。今日の安眠と引き換えにするならそれくらいは安いものだ。そう思い、取り敢えず一万円を引き出そうとして、


「お手数ですが、最初からやり直してください」


 やんわりと拒否された。


 結論から言えば、口座の残高は一万円も残っていなかった。


 もう少しあったような気がしていたのだが、それは今日、同窓会の会費を払う前までのことだ。どうやら記憶があやふやになっていたらしい。


 有り金全てを引き出し、それを使ってタクシーに乗るという選択肢もあったのだが、果たしてその金額でどれくらいの距離を乗せてもらうことが出来るのだろうか。

 

 なにぶん綾瀬は、タクシーを使う機会が無いものだから皆目見当もつかない。もしかしたらここから家までたどり着けるかもしれないし、たどり着けないかもしれない。たどり着けなかったら悲惨である。銀行にはもう金が無い、手持ちだってそこまで多くは無い。明日からの生活費すらない状況で家にも帰りつけずに、中途半端な位置で放り出されるのは流石に御免こうむりたかった。


 さて、想像よりもずっと残高の少ない口座を目の当たりにしたところで、普通ならば「節制しなければならない」と考えるはずなのだが、人間困ったもので。ある程度以上追い詰められてしまうと自暴自棄になってしまうらしい。その産物が今綾瀬の手に持っている肉まんと、ポケットに入れ、カイロ代わりに使っているホットのミルクティーなのだった。


 昔「空港にいるんだけど、残高200円しかない。金も引き出せない」とネットの掲示板で相談した人が、二時間近く後に、ジュースでも買ったのか残高80円になっていたのを思い出す。


 そのコピペを始めて見た時は笑ったが、こうやって「どうしようもない現実」に放り出されると思う。ハッキリ言って笑えない。こんなものを買っている場合では無いことくらい分かっているのだが、どうせ足りないのなら少しくらい使ったっていいじゃないか。口座から全部引き出しちゃえばいいじゃないかと頭の中で悪魔と化した自分が囁くのだ。


 そんな悪魔が生み出した産物A肉まんを食べ終わり、引き続き悪魔が生み出した産物Bホットのミルクティーで暖を取りながら、綾瀬はゆっくりと歩き続ける。そして、考えるのだ。これからどうしよう。


 決まっている。本当は手元に残っている有り金を全部使い、タクシーに乗り、足りない分は後で支払うことにして連絡先を教え、実家に泣きついて現金を振り込んでもらうのが一番なのだ。そんなことは分かり切っている。


 しかし綾瀬は、その選択肢だけは取れなかった。


 真面目に暮らしているのならばともかく、大学に通う為に一人暮らしをしているのに大学には行かず、休学をしたのにも関わらずテキトーな理由を付けて実家には帰らず、それでもなお振り込まれる生活費をきっちりと使い込んでしまっている以上、円満解決など夢物語といっていい。その時点では振り込んでくれるかもしれないが、来年以降の生活がどうなるかは正直考えたくない。自分で何とかするしかないのだ。


 とばいえ、ここから自宅のアパートまで歩いていくことは余り考えたくないし、タクシーに乗るのは明日からの食糧難と引き換えに使湧ければならない最終手段だ。一応、大学の友人がいないわけでもない以上、それに頼る手段もあるが、”彼”がこの冬休みも差し迫った時期、こっちにいるかどうかを確認したことがない。


 今から連絡して聞けば答えてくれるかもしれないし、手を差し伸べてくれるかもしれないが、この時間である。返事は朝になってしまう可能性が高く、タクシーに乗って有り金を使い果たした後で「実は実家にいるんだわ」と言われてしまえばアウトである。それに、彼には何となく金の無心はしたくなかった。そんなみみっちいプライドなど捨ててしまうべき状況であるのも理解しているつもりなのだが。


「…………はぁ」


 ため息。


 考えていたらどっと疲れてきた。余り気は進まないし、この辺りにあるのかは分からないが、やっぱりネットカフェでも探してみるべきだろうか。久我の言った通り、先ほどの駅周辺にはその類の店は存在しなかったが、そろそろ一駅分くらいは歩いただろうし、探せば一店舗位は見つかるのではないか。そうだ。そうしよう。寝られるかどうかは分からないが、最悪暖は取れる。少なくともこのまま無計画に歩き続けるよりは大分マシである。きっとそれがいい。

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