第5話 邂逅

 ハーラと話したその日から、サイードの見ている世界は変わった。どんよりと霞んで朧げに見えていた世界が晴れ、すべての輪郭がはっきりと鮮明に見える。空はどこまでも青く、木々は緑色に繁り、街の外に見える砂漠は金色に輝いて見えた。


 ガパ市街地から七キロメートルほど北に離れた砂漠の真ん中に、深々と緑の生い茂るオアシスはある。このオアシスはガパを潤す豊かな水源のひとつだ。バオバブが生い茂る森の真ん中に滾々と静かに水を湛える泉が太陽の光を反射している。王宮を抜け出し、一人で泉のそばに佇む。透明な水面に移る、ありのままの自然に囲まれた自分の顔を覗き込んだ時、サイード・アルマリクは唯一『フセイン・アルマリクの後継者』であることから解放され、本来の自分の姿に戻った心持ちになった。

 深く暗い泉の底に、サイードはハーラの潤んだ瞳を思い描いた。あの紺碧色の瞳の奥に、自分の姿が今と同じように映っていればいいとサイードは思った。


その直後、


ピィーーーーーッ


と猛禽類特有の高い鳴き声が聞こえた。


頭上を見上げると、木々の間から獲物を追う黒い鷹が、澄み渡る空の高いところを一直線に飛んでぐるぐると旋回するのが見えた。


そして次に瞬間、サイードの横をヒュッと矢がかすめていった。


 突然の出来事に身体を硬直させたまま、動くこともできない。

 『フセイン・アルマリクの後継者』である自分の身に何かあっては一大事だということは認識している。

 ヒヤッと背筋が凍る。

 心臓が破裂して喉から飛び出そうだ。


――敵か?


 ドクリドクリと脈打つ胸を落ち着かせるように、サイードは大きくひとつ深呼吸した。

 腰の半月刀に手を掛ける。

 サイードは木陰に身を潜め、矢の飛んできた方を、息を殺して瞬きもせずに見つめていた。


 静寂が辺りを包む。

 しばらくすると、ガサガサと草をかき分けてこちらに進んでくる音が近づいてきた。大きなバオバブの木の奥の方で、生い茂る草が動くのが見て取れる。その草の揺れが一段と大きくなったと思ったその時、小麦色に日焼けした黒い髪の若い男がぬっと現れた。


「あー!しくじったか!!!」


 木陰に身を隠したサイードには全く気付かないまま、地面に刺さった矢を引き抜きながら、その男が呟いた。


「兎でも仕留めたと思ったんだがなぁ……デデ!」


 男が、その名を呼びピィーッと口笛を吹くと、頭上を旋回していた鷹が、バッサバッサと羽音をたてて、男の革の肩当ての上に降り立った。


 どうやら男は狩りをしていたらしく、故意にサイードを狙ったわけではなかったようだ。サイードが、というよりも自分以外の人間がこの場にいることに、彼は全く気づいていないようだった。男は泉のほとりに佇み、遠くの景色を見渡した。

 彼はただの狩人ではないようだった。武人なのかなと、サイードは思った。薄くなめした革でつくった鎧を着て、背中には弓を背負っているだけではなく、腰に半月刀を差している。半月刀の横にぶら下げた円形の盾に刻まれた紋章から、タサの人間であることが分かる。

 十メートルほど離れた泉のほとりに無防備に突っ立っているこの男は、自分に害を為すような者ではないということは感じていた。しかし、サイードは、忍んで城を出、この場に憩いに来ただけである。自分の姿が不用意に見ず知らずの誰かの目に留まっては、面倒なことになるような気がする。サイードは半月刀に掛けた手を納め、この場をそっと立ち去ろうとした。

 そんなサイードの気持ちに構うことなく、デデは獲物サイードを見逃そうとしなかった。主人の肩におとなしく留まっていた鷹が、主に獲物の居場所を知らせるかのように羽をバタつかせ、キィーキィーとけたたましく鳴いた。


「誰かいるのか?」


 勢い、主人の男もデデが見つめる方に視線を向けた。男が身構えながらデデの見つめる視線の方向に歩を進めようとした時、観念したかのようにサイードが木陰から姿を現した。軽装だが半月刀を腰にさしているサイードを見て、男は腰の半月刀に手をかけた。


「……待ってくれ。私は怪しい者ではない。このあたりに散歩をしていただけだ」


 サイードは両手を胸の前で広げ、攻撃する意思はないことを伝え、男をなだめるように言った。りきんで前のめりになっていた男が、一瞬ほっと力を抜いた。初対面の者同士、なんとも居心地の悪いしばらくの沈黙の後、男が質問を投げかけた。


「……いつからここにいたんだ?」


「いつからって……一時間ほど前から。矢が当たりかけた」


「そ、それは――」


 サイードの答えを聞いて、男は腰の刀から手を放し、背筋を整えて立ち直して続けた。


「……すまないことをした。狩りをしていたんだ。狙ったつもりはなかったんだ。申し訳ない」


「いや、何事もなかったから……大丈夫だ」


 目の前の男が素直に頭を下げて謝るのをあっさりと許して、サイードは太陽が西の方に傾こうとしているのを眺めて言った。


「……そろそろガパへ戻ろうと思う」


「名前を覗ってもいいだろうか?きちんとお詫びがしたい」


「いや、名乗るほどのものではないんだ」


 自分が皇太子の身分であることを明かして、ひとりで出かけていたことがバレるのも嫌だ。面倒くさい事態になることを一番に恐れたサイードは情報を明かしたくなかった。


「私はウマル。ウマル・ルルーシュだ。東方の戦況の報告をするついでに甥に会いに、タサから来た。君は?教えてくれないか?このままではオレの気が済まない」


 自分を見つめるウマルのまっすぐな視線から逃れることができず、サイードは困惑した。


「私の名は……マジュール」


名無しマジュール?」


「……そうだ」


 サイードの言葉にウマルは納得しないように眉根を歪ませて、立ち尽くしていた。


「私はたまにここに散策に来ている。機会があればまた会うこともあるだろう。会いたければここに来てくれ」


 ウマルの様子を見ているのがなんだか居た堪れなく、サイードは早口で適当な言葉を繋いた後、さっときびすを返しその場を足早あしばやに立ち去ろうとした。


「マジュール!また会おう!!!」


 背後からウマルの大きな声が聞こえた。

 サイードは振り向きもせずに右手を上げて手を振り、居城への帰路を急いだ。




「――ウマル様」


 サイードの本当の名も知らぬまま見送るウマルの背後から、ラクピ・ネブーゾの若々しいハリのある声がした。ハーラの兄であるラクピ・ネブーゾは、宰相アムルタ・モーレに仕えていた。この日は、甥であるロンミ・アルマリクに会うためにタサからやって来たウマル・ルルーシュの狩猟の供をしていたのである。


「探しましたよ!どんどん先に行ってしまわれるものですから。……誰かいたのですか?話し声がしましたが」


 ウマルの見つめる木陰の向こうに、ラクピも視線を投げかけ、去っていく男の後姿をチラッと一瞬見た後、


「あれは……」


と言葉を詰まらせ、二度見するのに身を前に乗り出した。


「いや……狩りの途中で散策している男に会っただけだ」


 サイードの後姿に目を凝らすラクピの背中を見ながら、ウマルが何の気なしに言葉を付け加える。


「あれは……サイード皇太子かもしれない……」


「皇太子?」


 まさか市街地から離れたオアシスの中に、供もつけずにたった一人でいた男が、次期皇帝に最も近しい男とは思いもよらず、ウマルはラクピの口にした名前をただ鸚鵡返おうむがえしに繰り返した。


「……なんでこんなところに皇太子がひとりで?」


「それは私にも分かりかねますが……あのひょろりと背の高い背格好はサイード皇太子に似ているように思います。私が見たのは後姿だけなので実際のところは分かりませんが」


「何ということだ!……オレはもう少しでサイード皇太子を自分の弓で射るところだった。大罪人になるところだ。危なかった……」


「それは――」


 ほっと大きな溜め息をついたウマルの言葉を聞いて、ラクピは真顔になって冷淡に呟いた。


「……いっそ射殺いころしてしまったほうが、我々にとってはよかったかもしれない」


「なんてこと言うんだ!?ラクピ!!!相手は皇太子だぞ!?――こ!う!た!い!し!」


 誰が聞いているわけでもないのに慌ててたしなめるウマルの顔を、ラクピは無表情のままじっと見つめていた。


――サイード王子を亡き者にすれば、ウマルの甥であるロンミ・アルマリクが跡継ぎになる可能性が高まる。そうすれば、ラクピが仕える宰相アムルタ・モーレの勢力もさらに強固なものになるだろう。


 口に出さなくても、ウマルもそのことは分かりすぎているほど分かっていた。

 ラクピが無言のままに言わんとしていることを聞いてしまってはいけないような気がして、ウマルは続けた。


「……さぁ。終わったことを言っていても仕方がない。オレたちもそろそろ帰ろう。日が暮れると厄介だ」


「そうですね……」


 ラクピはそう呟いたきり、ウマルに従った。二人はオアシスを後にし、ガパへと戻った。

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