第4話 620年

 サイード・アルマリクの父、フセイン・アルマリクが当時13歳であったハーラ・ネブーゾを息子の花嫁に決めたのは今から二十年前、メアポナラ暦620年のことだった。

 それは商業都市ベモジィの持っている財力を活かして、アルマリク朝による支配を盤石のものとし、エラム帝国のさらなる繁栄を目論んだものであり、結婚する当人たちは、お互いの顔も認識できないような間柄であった。

 しかしながら、サイードはこの婚約を大変喜んでいた。と言うのも、この婚約だけが唯一、父フセインが自分のためにしてくれたことだと思っていたからである。


 ウェセロフ帝国興隆の前からエラム帝国東の地域では蛮族による侵攻が度重なり、フセインはその制圧に奔走する多忙な日々を送っていた。


 またその当時のエラム帝国は、内政面においても安定しておらず、皇帝がいなければ何事も決まらない混乱した状況にあった。宰相アムルタ・モーレと内務大臣フィゲ・リミムザーロをそれぞれ筆頭にした二派閥による権力闘争で、他の執政官及び、軍部や国内42地区の太守も巻き込み国内を二分していたのである。

 内政を混乱させた一因はフセインそのものにもあった。サイードの母親は、息子を生んだ産後の肥立ちが悪く、若くして他界。後妻を迎えた後も、さらに八人もの側室を迎え、六人の男児を設けていた。このことがフセイン亡き後の後継者争いにも結び付き、長男サイード・アルマリクを推す大臣派と、生まれたばかりの末弟ロンミ・アルマリクを推す宰相派の争いは、後宮を巻き込み、より複雑なものへと発展していった。


 母を幼くして亡くし、激務に追われる父には顧みられることもなく、エラム帝国皇位継承一位にある長男サイードは育った。帝王学を学ばせておくように、というフセイン・アルマリクの指令の元、サイードの教育は、内務大臣フィゲ・リミムザーロの派閥にあったクルムク・パサテに一任されていたが、パサテは良くも悪くも、部下としての線引きをきちんとした男だった。リミムザーロに申し付けられた通り、サイードに学問を教える以外の情操的な教育といったものは全くすることがなく、ただ機械的に授業をする他の時間は、派閥に属する大臣への根回しや地方の有力者への挨拶回り等、所謂『政治』に忙しくしていた。


 大人たちの政治の世界の中で、世継ぎとしてガラス細工のように大切には育てられていたサイードは、パサテが一方的に話す学問の時間以外は常に孤独だった。

 サイード・アルマリクは、常に『フセイン・アルマリクの後継者』であった。帝国東部遠征で不在にしていることの多かった父親は、自分の後継者としての教育を部下に任せたまま無関心であり、一年以上顔すら合わせないこともあった。

 父親以外の大人にとっても、彼は常に『フセイン・アルマリクの後継者』でしかなく、宰相の操り人形だと揶揄されることもしばしばだった。「サイード」という彼自身の名前はほとんど意味を成していなかった。首都ガパにおいて「サイード」という名前を持つひとりの少年に対して関心を持つ者は誰一人いなかったのである。


 そうした状況の中、父がわざわざ自分を指名し、自分のために取り付けてきた婚約を、サイードは誇りに思った。それは政略結婚だとは分かっていたものの、サイードの人生の大きな区切りになることは間違いなく、サイードの人生を善き方向へ導くものに違いない。父親が自分にその眼差しを、少しの間だけでも向けてくれたことが、サイードには光栄に思えた。




 婚約の話が決まった翌年年始の宴会で、サイードはベモジィからやって来たハーラと初めて直接会話をした。


「初めまして。ハーラ・ネブーゾと申します。この度はかくも盛大な年始の宴にお招き預かり光栄です」


 サイードとハーラとの初対面は短いものだった。

 ベモジィ太守に付き添われたハーラは、鈴が鳴るような凛とした声で短い挨拶をした。空色のヴェールの奥からわずかに見える、潤んだ碧い瞳が、フセイン・アルマリクの横に座しているサイードをじっと見つめていた。サイードから五メートルほど離れたところに膝をついているハーラの瞳が夜空に遠く瞬く小さな星のように輝いて見えた。


「遠いところ大儀であった。今宵は月もきれいだ。どうぞ宴を楽しんで、今後とも息子を頼む」


 皇帝からの労いの言葉を聞き、ハーラは目を伏せ一礼した。長い睫毛がその白い頬に優美な影を落とす。

 自分の身体に本当に血が通っているのだなと、サイードはこの時、人生で初めて感じた。心臓がドクンドクンと脈打ち、温かな血液が全身から胸に集まって来る。頬が火照るほどに身体が熱くなる。

 父が取り決めたハーラとの婚約を、サイードは父から与えられた名誉のように誇り高く思っていたが、それは彼の本心からの喜びとは程遠い感情でもあり、しくじってはいけないという緊張をもたらすものであった。厳格で誇り高い父親の横で緊張し、冷たくなっていたサイードの心が、ハーラの声を聞き、その姿を目にするや、ほっと綻んだ。冷たく凍てついたまま長い眠りについたサイードの心を蘇らせる春風のように、ハーラへの思いがサイードの身体を駆け抜けていった。

 緊張してこわばっていたサイードの顔から、笑みがこぼれる。ハーラとの婚約をサイードは、心の底から喜んだ。

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