第3話 月魄亭にて

 波止場のはずれの暗い路地裏にある、煤けた黒いその宿には「月魄亭げっぱくてい」と、ほとんど消えかけの筆文字で書かれた木製の赤い看板が、斜めに傾いた状態で掛けられていた。

 街灯のない細い路地裏は溝臭く廃墟のような崩れかけたバロックが立ち並び、無論暗い。そんな路地裏にしっくりと馴染んだ佇まいの木造の建物だ。2メートルほどの幅の狭い入り口には、髪を結うことはもちろん梳かしもせず、ボサボサの白髪を振り乱した老婆が、うとうとと居眠りするように目をつぶりながら膝に猫を乗せて座っている。時折、猫が「オワア」とあくびをする声が聞こえてきた。

 薄暗い蝋燭の火がテーブルの上で揺れている。クレメンテとジルは薄暗い宿屋の一階奥のテーブルで差し向かいに座り、オリーブの酢漬けとチーズ、薄っぺらいハムの載った小皿を前に、薄いエールを飲んでいた。


「……たくっ!後先ぐらい考えて行動しろよ」


ジョッキを煽ったジルが、ブツブツと過ぎたことに文句を言い続けるのに、いい加減クレメンテもムッとして反論した。


「なんだよ!?オレはお前を助けてやったんだぜ?もうちょっと感謝してくれたっていいんじゃね?」


「いやいやいやいや!助けてくれって一言も言ってないだろ!」


「……そりゃそうだけど!じゃ、じゃあ、お前はあのまま奴隷として変態オヤジに売り飛ばされたってよかったってことかよ?」


「それ、お前が心配すること?」


「そりゃ違うけどさ……」


今になってみると確かに自分でも、なんでこんな男の心配をしたのか、クレメンテには理由が全く分からなかった。


「てか、お前オレに惚れてんの?」


ジルの突拍子もない言葉にクレメンテは口に含んだエールを盛大に噴き出し、捲し立てた。


「はあ!?ちげーから!!!それだけはないから!!!!!オレは女が大好きなの!!!!!趣味にないわ!おっさんに犯されるとかなさすぎ!!!」


「あー、きったねーなー……」


自分の吹き出したエールで汚れたテーブルをジルが拭きながら、面倒くさそうにつぶやく。クレメンテはそんなジルの様子を無視して、大きく息を吐いて、言葉を続けた。


「オレは、お前のことがかわいそうだと思って、せっかく助けてやったのに……」


「だーかーら!人のことかわいそうとか言うなっつーの!そういう上から目線なのがムカつくんだよ!」


俯いてテーブルを拭いていたジルが不意にふくれっ面で、オレの方を睨んだ。




――憐れむような眼でオレの顔、見ないでくれる?




初めてジルと会ったときに言われた言葉を思い出した。

クレメンテとしては、上から目線のつもりは毛頭ない。しかし、祖国を失ったこともなく、決して裕福ではなかったもののぬくぬくと平和に暮らしてきた自分には想像できないような過酷な運命を辿り、必死で生きてくるしかなかったヤツからすると、その人生に勝手に同情して憐れむのは、「上から目線」に映るのかもしれないと、クレメンテは想像した。


「……悪かったよ」


クレメンテはぼそりと謝罪の言葉を口にすると、再び大きく息を吐き、正面から自分を睨みつけるジルの目を見返した。


「今からバイロウんとこ戻って二人で謝る?」


急に殊勝になったクレメンテがそんなにおかしかったのだろうか?ジルの顔が綻び、「プッ」と吹き出した。


「そんなん逃げた意味ないじゃん!弱気になんなし!!!」


不意に笑われたクレメンテは、なんだか急に恥ずかしい気持ちになった。クレメンテは心からジルに悪いと思って謝っただけだ。別に弱気になったわけじゃない。


「……じゃ、……じゃあ、別にいいだろ。もうやっちゃたもんは仕方ないぜ!?」


ジルが奴隷として生きているのはとても不幸なことであり、解放されることが正義だと思ったのは、自分だけの勝手な偏見であり、善意の押し付けだったのかもしれないということに、クレメンテはふと気づく。


――オレはジルのためにジルを逃がしたんじゃない。


――オレは自分のためにジルを逃がしたんだ。オレは奴隷商人になんかなりたくなかったのだ。


ジル・イルハムの肉体の売り買いは、クレメンテの魂の売り買いでもあった。クレメンテは、自分の魂をジョゼッフォ・バイロウに売りたくなかったのである。


 ジョゼッフォ・バイロウの屋敷から、半ば強引に連れ出されて逃亡したジルが、本当のところどう思っているのか、クレメンテには分からなかった。ジルは心の底では後悔しているのかもしれないが、目の前にいる今この時、一瞬でも機嫌が直ったのならよかったと、クレメンテは自分を慰めた。


「とりあえず、ここ出るにしても宿に留まるにしても金が必要だから、客でも取るかなぁ……」


冷静になったジルが今後の資金繰りの算段をし始めた。

ジョゼッフォ・バイロウに見つからないところへ逃亡するには先立つものが必要だ。


「はぁ?そんなん辞めろよ。奴隷と変わんねーじゃんか」


クレメンテは反論した。


「そんなんできるなら荷物夫でも掃除夫でも傭兵とか。なんでもできるんじゃない?……死ぬ気になれば、生きることもできんだろ的な」


 この時のクレメンテにとっては、ジルの肉体の自由は、自分の魂の自由のような気になっていた。

ジルが身体を売ろうとするのを、クレメンテは心の底から止めたかった。せっかく無茶をして手に入れた自由なのである。自分の自由な人生を謳歌してほしいと思うし、クレメンテ自身も謳歌したいと思う。




「……今夜部屋は空いているか?」


 クレメンテが再びエールを煽って椅子の背凭れにだらりと深く身体を預け、脚を組み替えた時、入り口から黒ずくめの人物が入ってきた。

 マントを目深に被っているためその表情は見えない。190センチ近くはある長身の男で肩幅も広い黒色のマントを身に纏う下には、同じく黒色の重厚な鉄製の鎧が見え、腰には半月刀と丸い盾が、背中には長い三俣の槍が2本担がれているのが見えた。エラム帝国の兵士だろうか?しっかりと金をかけ戦うための教育と訓練を施されたことが窺える、徹頭徹尾整えられた装備からは、街でよく見かける自堕落を絵にかいたような着の身着のままな大抵の傭兵とは全く異なっていた。


「お二人ですか?」


 入り口に座っている老婆の娘だろう。白髪の混じった長い髪を後ろにぐるっと回して髪留めで器用に止めている50がらみの女性がカウンターでにこやかに対応した。


「ああ、そうだ」


 男は低い声で端的に答えた。その男の後ろにカーキ色のマントを身に纏った華奢な男が立っている。フードから細長く白い首筋が見える。銀色の長髪が首元にかかってきらきらと輝いていた。


「前金制ですがよろしいでしょうか?」


「ああ。食事は頼めるか?」


 黒ずくめの兵士が質問を続ける。


「ええ、1階でお取りください」


 女将の返答を聞いて、漆黒のマントの男がこちらのテーブルのほうをチラリと見た。力強い一直線の眉の下に凛々しく力強い光の宿った黒い瞳が見える。


「分かった」


 男は短く答えると、クレメンテの斜め後ろ、1階食堂中央の席に手をかけ、部屋の奥側の椅子を引こうとした。


「いいよ、サレハ。自分でするから」


 サレハと呼ばれた黒ずくめの男はちょっと頭を下げ、もう一人の華奢な男の下座に座った。

 お忍びで場外に外出してきた高貴な身分の男とその御付きの兵士か何かかと、オレは思った。お忍びにしても高貴な身分なのであれば、もっといい宿に宿泊すればいいのに、なぜこんなボロ宿を選んだのかと不思議に思ったその時だった。


「ひぃ……ゃあああああああああああああああああああああ!!!!!!」


 宿屋の外から、玄関先に座っている老婆のものであろう悲鳴が聞こえてきた。拍子抜けするほど裏返って所々高くなったり掠れたりする声が、一層哀れっぽい。

 その直後、ドカドカと複数の男たちが乱入して足音が聞こえる。クレメンテとジルは食堂の入口の方に同時に目を向けた。

三人の男が食堂にズカズカと乗り込んできた。抜き身の半月刀を中段に構えた中肉中背の狐目の男に続いて、四角い顔を丸刈りにし、無精ひげを蓄えた大きな棍棒を持った男、そして最後に、顎が長くきゅうりのように細長い輪郭の、顔に合わせてしつらえたようなこれまた長い杖を持った男だ。


「クレメンテ・ドゥーニはいるか!?!?!?」


 クレメンテは殺気立った大声で自分の名前を呼ばれ、ジョゼッフォ・バイロウの差し金で雇われた男たちがやってきたんだと直感した。胸元に隠し持っていた短刀に手を掛け、テーブルの向こうに座っているジルのほうに目を遣ると、ジルはジルで、腰をかがめて椅子の脚を掴んでいた。

 クレメンテとジルは目を合わせて頷きあった。彼らは同じことを考えていた――乱入してきた男たちに椅子をぶつけて入り口に向かって走って逃げる……正面を強行突破しかない。


「お前がクレメンテ・ドゥーニか!?」


 先頭に入ってきた男が中央のテーブルに座っている一際目立つ黒ずくめの男――サレハに背後から近寄って、半月刀をその喉元に近づけた。


「違う」


 サレハは低音のよく響く声で答えた。

 即答に狐目の男はうっすらと目を開けひるんだように見えたが、なおも食い下がる。


「クレメンテ・ドゥーニは、色の白い奴隷を連れて逃げていると聞いている。お前の連れのほうのフードをとってもらおうか!?」


――ジョゼッフォ・バイロウから、オレの身体的な特徴をしっかり聞いていなかったのだろうか?


 クレメンテは心の中で苦笑した。

 赤毛で中背細身。どちらかというとチャラチャラした自分の、どこをどうしたら、黒髪で長身、真面目一徹そうなサレハと人違いするのか理解できない。


 奴隷の情報の前に本人の情報をもっと聞いておくべきだった、この間抜けな追跡者たちから、クレメンテは、ジルを連れてさっさと逃げられないかと隙を覗った。


「嫌だ、と言ったら?」


サレハが淡々と答える。


「フードが取れない理由でもあるのか?」


「…………」


うんともすんとも言わず黙っているサレハにしびれを切らし、狐目の男が上座に座っている銀髪の男のフードを力づくで取ろうと一歩足を踏み出す。

――と、その瞬間、サレハが腰に差していた半月刀を目にもとまらぬスピードで抜き、その柄で狐目の男の半月刀を払い落とし、手首をするりと返したかと思うと、椅子から立ち上がって刃の方を、狐目の男の首元に突き付け返した。

あまりの早業に背筋が凍る思いだったのだろう、狐目の男は身を仰け反らせる。

その額からはたらりと一滴の汗が流れた。

仲間の二人も呆気に取られて、呆然とその状況を眺めていることしかできないようだ。


「オレはクレメンテ・ドゥーニという男ではないし、連れ合いは奴隷ではない。立ち去れ」


「……わ、分かった」


狐目の男は、呆気なく降参を示して両手を上げて、後ろに後ずさりし、右方向に飛んで行った半月刀を拾い上げ、入り口のほうへ退散していったかのように見えたが、彼らは姑息だった。

宿の入口カウンターに置かれていた高さ50センチほどの花瓶をサレハの方に投げつけると同時に、今度は三人がかりでサレハに向かって各々武器を構えて駆け出した。

 サレハは慌てる様子もなく、自分の座っていた椅子を片手で持ち上げると、飛んできた花瓶をそれで叩き落し、壊れた椅子を右側から襲い掛かってきていた棍棒の男めがけて投げつけた。棍棒の男は、慌てて立ち止まり、棍棒を振り下ろして、自分に投げつけられた椅子を床に叩き落した。

さらに向かってくる男二人に対し、サレハはテーブルの奥に回り込みテーブルの脚を掴んで盾にして、半月刀と杖での攻撃をかわす間に、壁に立てかけていた長槍2本を左右の手に取る。

狐目の男もサレハへの突進を辞めない。

立てられたテーブルの板面を足で蹴り、その反動で高くジャンプし、サレハに上から襲い掛かった。ガチィィィィィン!と半月刀と長槍が激しくぶつかり合う音が響く。


「ナギル!!!!!」


狐目の男がサレハの相手をしているうちに、杖の男が長いリーチを活かしてカーキ色のフードを身に纏った男に襲い掛かろうとしていた。

クレメンテも思わず、胸元に隠していたナイフを、きゅうり顔の男に向かって投げようと懐に手を入れた。

その時、ナギルは腰に差した金で飾られた豪奢な鞘から半月刀を抜き取り、踊るように優雅な弧を描き、まっすぐに前から伸びてくる杖をぐるりと払い、切っ先を長細い顔の男の鼻先に突き付けた。目深にかぶっていたフードが外れ、さらさらとした長い銀髪が露になってふわりと揺れた。


「ナギル!!!逃げるぞ!!!!!」


 サレハはもう片方の長槍で狐目の男を脇腹から壁へ叩きつけ、棍棒の男の脚を薙ぎ払った。


「分かった!」


ナギルはきゅうり顔の男をさっと峰打ちにし、先に入り口の方へ駆け出して行ったサレハの後を追った。


「ジル!オレたちも!!!」

「え!?……あ?……ああ!!!」


クレメンテはジルに呼びかけると、サレハとナギルを追った。

自分たちに間違えられたせいで暴漢に襲われ、宿を出ていくことになってしまったのだ。せめて宿代だけでも返したいと、人のいいクレメンテは思ったのである。

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