第2話 光さす方へ

 人間は生まれながらに平等ではない。

 裕福な者と貧しい者、力の強い者と力の弱い者、賢者と愚者、美しい者と醜い者等、人間には生まれながらに格差がある。そんなことは世界地図で言えば、最北西の端っこの小さな港町出身のクレメンテ・ドゥーニでも分かっていることだ。


 クレメンテの学校での成績は中の中だったし、ケンカは得意ではなかったから舌先三寸で避けてきた。見た目は悪くないから女にはまあまあモテたほうだ。実家は漁師で金はない。だから、学校を出たらすぐに奉公に出されたのだ。

 成績でも、腕っぷしでも、利口さでも、女にモテるかモテないかでも、すべては自分ではない誰か別の他人との比較の中で、自分の立ち位置は表現される。社会に出たら出たで、ジョゼッフォ・バイロウのように雇う側の人間がいれば、クレメンテ・ドゥーニのように雇われる人間がいる。


 人間は生まれながらに平等ではない。

 そんなことは分かってはいるのだが、人間に値段をつけ売り買いの対象にするという、人間の格差をまざまざと見せつけるかのように値付けし、烙印を押していくような資格が、果たして、同じ人間にあるのかということは、クレメンテには理解できなかった。頭では理解できたとしても、心情として納得はしがたかったのである。



――人間に値札を付ける資格が自分にあるのか分からないまま、オレは今それを生業としようとしている。


 クレメンテは考えた。人を買う側の奴と、人に買われる側の奴がいるだけだと言えばそれだけだ。極論、人を雇う側のヤツと、人に雇われる側のヤツがいるというのと一緒なのかもしれない。


――人に雇われているオレが、人を買うのか?


――オレに人を値付けする資格はあるのか?


――買われているこの男たちと、オレの違いは一体どこにあるのだろうか?


 ジョゼッフォ・バイロウのように生まれながらの商人で、物心つく前から人身売買が日常茶飯事な環境で育ったのであれば、なんの疑問も持たないまま、他人をこうも無頓着に値付けしては自由を奪い、売り買いできたのかもしれない。

 幸か不幸か、クレメンテはその感覚を持ち合わせていなかった。

 ジョゼッフォ・バイロウからすると、クレメンテも金で買ったのと同じような人間の一人なのかもしれない。


――そういや、オレが奉公に出るとき、親父は幾ばくかの金を受け取ったような話をしていた。……とすると、オレが鎖を引いている奴隷たちと、オレの違いはどこにあるのだろうか?オレに彼の自由を奪う権利はあるのだろうか?


 クレメンテの自問自答は続いた。


――例えばこの150グリーグで買った奴隷とオレの違いは国籍だけなんじゃないか?マリゼラという平和な島国に生まれた幸せなヤツと、モフセンという今や滅びた国に生まれた不運なヤツという違いが、そこにはあるだけだ。


 購入したばかりの奴隷の鎖を引っ張って、ジョゼッフォ・バイロウの後を着いて行くクレメンテ自身の足取りが重くなる。ジル・イルハムがジャラジャラと鎖を引きずる音が、自分自身の足元から聞こえているような気がした。




 船に着くと、奴隷たちは船底の大部屋に鎖に繋がれたままぎゅうぎゅうに押し込められる。朝になるとエラム帝国まで船の漕ぎ手として彼らをひたすら使役する。自分たちの買い手の元まで、自分たちの手で、自らを運ばせるのだ。

 そんな中、他の奴隷とは異なる破格の値段で購入したジル・イルハムの扱いは違っていた。ジョゼッフォ・バイロウは、ジルをクレメンテの船室につないで見張っておくように命じて続けた。


「クレメンテ、そいつは大事な商品だ。身体をきれいに洗ってやれ。服も高く売れるように準備してやらねばならん。飯はコック長のエリクに準備するよう頼んだから、時間になったら取りに行け」


 クレメンテはジョゼッフォ・バイロウに言われた通りに自室に彼をつなぎ、身体の洗い桶の準備を始めた。


「準備が終わるまで座っていていいぞ」


 狭い船室で、鎖に繋がれたままぼんやりとベッドの脇に突っ立っている、薄汚れたボロを身に纏ったままのジルに、クレメンテは、背中越しに声をかけた。


「……名前は?お前、名前はなんて言うんだ?」


 クレメンテは、エラム帝国に到着するまで世話をしなければならないその男の名前を聞いた。高値の奴隷は「ふっ」と鼻で笑って自嘲気味に話した。


「おかしなヤツだな。奴隷に名前なんて必要ないだろ。好きに呼べばいい」


 洗い桶に水を入れながら、クレメンテは困った顔をして、ベッドの脇に置いてある椅子に腰を掛けようとしている男の方に顔を向けて話を続ける。


「……いや、オレはお前の主人ではないんだし、しばらく一緒にいるんだ。お前を何て呼べばいいのか分かんないからさ」


 椅子に座った男はクレメンテの顔を正面からじっと見て、ちょっと驚いたような顔をして、しばらく思案し答えた。


「……ジル。ジル・イルハム」


「ふぅん、ジルか。オレの名前はクレメンテ。クレメンテ・ドゥーニだ。風呂の用意ができたから入ってくれ。オレは服取って来るから、鎖は外せないけれど、まぁ、ゆっくり……」


 風呂を勧めるオレの顔を見て、ジルは再び「ふっ」と笑った。


「お前はやさしいヤツだな。もっと非情になったほうがいいぞ、人買いなんだろう?争いばかりの弱肉強食の世界で生き残るんなら」


「いや、オレは……」


 ジルの問いかけに、クレメンテは言葉を返せなかった。

 クレメンテには、自分自身がやさしいのかも分からなかったし、自分自身が本当に人買いになるのかも分からなかったのだ。だから、「非情」になったほうがいいのかも判別することもできなかった。


――果たしてオレは「非情」になる必要があるのだろうか?


――それを考える前に、そもそもオレは何者なのだろうか?オレは何がしたいのだろう?


 ただ、クレメンテは咄嗟にジルの言葉を真っ向から否定したいと衝動に駆られ、頭が動くよりも先に反射的に口が動いてしまった。

 頭がこんがらがってまとまらない考えを振り払うかのように、クレメンテは赤毛の頭を振った。


「ジョゼッフォ・バイロウ……オレの主人が、言うからさ!お前はさっさと風呂に入って!!!」


 クレメンテは右手で洗い桶を指さしながら、バタンと扉を閉め、急いで部屋を出た。

 ジルの言葉は、クレメンテの頭を、心を掻き乱す。




――この部屋は月の光も差し込まない、牢獄のようだ。


 メアポナラ暦641年元日――時計の針は午前2時を指している。

 見回りの時間だ。クレメンテ・ドゥーニはデスクの右一番上の引き出しに入っている鍵を手に取り、自室を出た。階上での新年を祝うどんちゃん騒ぎもすっかり静まっている。しんと静まり返った石造りの廊下に出ようとして木の扉を開けると、ギイと軋んで、乾いた鈍い音が響いた。


 クレメンテの部屋の隣の独房が、ジル・イルハムにはあてがわれていた。

 扉のちょうど顔のあたりに開いた鉄格子のついた小さな窓から部屋の中を覗く。ジル・イルハムは壁側を向いてベッドに横になっていた。

 寝息をついているのだろう。肩のあたりが上下にゆっくりと動いている。自殺はしていないんだなと、クレメンテは妙にほっとした気持ちになった。


 さらに廊下を奥へ歩いていくと廊下と鉄格子で仕切られた監獄のような大部屋が続いていて、50人はいるであろう奴隷たちが所狭しと寝転がり、膝を折って窮屈そうに雑魚寝していた。寝返りも打てず、苦しそうに手足を動かしているのだろう。ジャラジャラと鎖の擦れる重い音に交じって、呻き声や、いびき、すすり泣きが聞こえてくる。

 彼らは三日後、市場が開くと同時に、見知らぬ異国の土地に売られていく。クレメンテが買うのを手伝った奴隷たちが金で買われていくのだ。クレメンテはここで黙って彼らを見送るだけで、自分は名実ともに奴隷商人になるのだと思った。


――オレは奴隷商人になりたかったのだろうか?


「お前はやさしいヤツだな。もっと非情になったほうがいいぞ、人買いなんだろう?争いばかりの弱肉強食の世界で生き残るんなら」


 ジル・イルハムが投げかけた言葉が、クレメンテの頭の中でぐるぐると繰り返し響いている。


――オレはやさしすぎるのだろうか?


 鉄格子の向こう側の闇の中で、こちらをギロリと見つめる目と視線が合う。10歳にも満たないであろう、褐色の肌をした少女だ。オレはこの少女をも一山300グリーグで買い、また一山500グリーグで売り捌こうとしているのだ。

 月が徐々に欠けていくように、クレメンテは自分の心が蝕まれていくのを感じた。


――このままオレの魂は闇の中に堕ちていくのだろうか。


 人間の心が、魂が月のようならば問題はない。月が欠け新月となり、また満ちて満月となる。その繰り返しなら問題はないのだ。

 しかし、一度まっとうな魂を見失った罪深い人間が、再びその汚れた魂を浄化することは生きているうちにできるのだろうか?何度でも何度でもやり直しはできるのだろうが、元のまっさらな魂に戻ることができるのか?あるいは戻すことができるのか?

 クレメンテには、一度堕落させてしまった魂を再びまっさらに蘇らせる自信が全くなかったし、人の心を失ってしまうことが恐ろしくもあった。人の心を失ったが最後、自分はジョゼッフォ・バイロウのような醜いモンスターへと変化してしまうんじゃないかと思った。


――奴隷商人になるために非情にならなくてはいけないのなら、オレはやさしいままでいい。


 クレメンテは大部屋の鍵穴にそっと鍵を差し入れ、時計回りに鍵を回した。ガチャリと錠が外れる手ごたえがある。目を覚ましていた部屋の中の奴隷たちは呆気にとられてしばらく口を開かなかったし、クレメンテも黙ってその場を去った。


 クレメンテがジル・イルハムの独房の鍵を開けたころには、隣の大部屋はざわつき始めていた。寝ている仲間の奴隷たちも起こして開いた扉から逃げようとし始めているのだ。


「……ジル!……ジル!!!」


 クレメンテはベッドの上に上半身だけ身を起こし、眠そうに頭を振っているジルに声を掛けた。


「ジル!逃げるぞ!!!」


 状況を把握できないのだろう。ジル・イルハムはぽかんと口を開け、瑠璃色の瞳でクレメンテの顔をじっと見つめていた。


「ジル!逃げるぞ!!!早く!!!!!」


 クレメンテはベッドからなかなか出てこないジルの腕を掴み、強引に部屋から連れ出し、他の奴隷たちが逃げ惑う雑踏に紛れて、ジョゼッフォ・バイロウの別邸をバタバタと後にした。


「逃げるって……これからどこへ行くんだ!?」


 毛布を頭から被って走っているうちに、状況が飲み込めたのであろう。クレメンテの後ろをついてくるジルが思いがけず冷静に話しかけてきた。


「どこへ行くって……」


 正直なところ、どこへ逃げればいいのかクレメンテ・ドゥーニにも皆目見当がつかなかった。

 自分たちと同じく我先に逃げようとする他の奴隷たちのたてる喧騒の中、実際ジルに聞こえていたかは分からない。クレメンテは口の中で繰り返し呟いた。


「……どこ行くって、月が出てる方だよ!」」


 その時のクレメンテはただ、光のさす方へ。

 光さす方へ逃げようと思った。

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