第1章 港湾都市モヘレブ
第1話 闇の奥
――この部屋は月の光も差し込まない、牢獄のようだ。
メアポナラ暦641年元日――つい5分前、新しい年を迎えたというのに、クレメンテ・ドゥーニの心の中には、めでたい気分はまったく起こらなかった。
タンヌロック王国から海上を三週間、船に揺られて、エラム帝国西端の港町モヘレブに到着。ジョゼッフォ・バイロウの別邸、地下にあるかび臭い四畳半の狭く殺風景な部屋が、奉公人であるクレメンテには割り当てられていた。
上階からは新年を祝う祝杯がカチャンカチャンと触れ合う音やら、ドッと漏れる笑い声、大勢の客たちの騒ぐ足音が微かに聞こえてくる。
遠く祖国を離れひとり。クレメンテは室内の粗末な木の椅子の背凭れの方を前にまたがり、頭をぐったりと預け、琥珀色した蒸留酒を片手に、明かりも灯さないまま、ぼんやりとジョゼッフォ・バイロウと出会ってからの出来事を、頭の中でゆっくりと反芻していた。
暗い部屋で、ジョゼッフォ・バイロウのことを考えるのは、クレメンテ・ドゥーニにとって、ほぼ日課のようなものだが、それはほとんど無意識的なもので、決して明るい気持ちになるものではなく、陰鬱な気持ちを呼び起こさせるものだった。
口ひげを捻りながら、唇を右にだけ上げ、たるんだ頬の肉を震わせて笑う、シミだらけのジョゼッフォ・バイロウの歪んだ顔が、トラウマのように何度もフラッシュバックしては消えていく。気怠い酩酊と微睡みの中、夢か現か分からないまま、瞼の奥が白んでいるのを感じて、次の日の朝を迎えるのだ。
ジョゼッフォ・バイロウは、マリゼラ諸島を拠点に、エラム帝国、メラド共和国、タンヌロック王国の、ラニエコ海を囲む三国間で貿易を営む商人のひとりだ。エラム帝国から輸出する綿花をメラド共和国で織物に変え、タンヌロック王国に売り、銀等の鉱物をマリゼラやエラム帝国に持ち帰るのである。
タンヌロック王国から持ち帰るのは鉱物だけではない。奴隷も連れ帰る。
北の大国ウェセロフ帝国が南西へと進軍を開始した4、5年前――モフセン王国が滅んで以降、エラム帝国と直接国境を挟んで睨み合いが続いている。それからというもの、エラムには奴隷がよく売れるようになったと、ジョゼッフォ・バイロウは大きな太鼓腹を揺らしながら嬉しそうに話していた。
「戦争が続けば続くだけ丸儲けだな。バカどもが殺し合ってできる死体の数だけ金になるのさ」
にんまりと満面の笑みを浮かべる顔は脂でギトギトとテカっていたのを、クレメンテはよく覚えている。
ジョゼッフォ・バイロウは豚だ。タンヌロック王国の黒い土地と人身を列強に売って、甘い汁だけを啜ってブクブクと肥え太る豚なのだ。少なくともクレメンテ・ドゥーニにはそう見えていた。
タンヌロックの赤道直下の太陽の下、黒々とした太めの濃い毛髪を生やし、こんがりと日に焼けた褐色の肌をした一山300グリーグで売られている奴隷たちの中で、ジル・イルハムの色の白い肌と、短髪に刈り上げられてはいるものの美しい淡い栗色の髪は目立っていた。短髪なのは、おそらく髪を長く伸ばしては誰かにそれを売っているからだろう。
ウェセロフ出身なのだろうか。一目見た瞬間、北の大陸出身の人間だなと、クレメンテ・ドゥーニは思った。マリゼラ南端の小さな港町から奉公に出されたばかりで、商売にはずぶの素人であるこの優男の目すらパッと引いたのだから、ジョゼッフォ・バイロウがジル・イルハムに目を付けないわけがなかった。
黒々とした立派な髭に縁どられた面長の輪郭の真ん中に、ぎゅっと落ち窪んだ眼窩の奥に白い眼がギロリと光る、浅黒い奴隷商人の不気味な姿に怖気づくこともなく、ジョゼッフォ・バイロウは醜くたるんだ腐肉の塊のような巨体を揺らしながら話しかけた。
「こいつはなかなかの上物じゃないか。いくらだ?」
「200グリーグでどうだ?」
「こいつひとりでだろう!?……高いな」
「男もいけるように調教済みだぜ?」
「ちょっとトウも立ってるだろう?いくつだ?」
「……18だ」
「そらみろ、18だろう。見た目はいい男だから女には売れるだろうが……男だと、エラムの上流階級の変態どもでも買い手が限られるだろうし、もうちょっと負けられないか?」
「150でどうだ?」
「100にはならんかね?」
「100は無理だ。他を当たってくれ」
バナナの叩き売りのように、自分に値段をつけていく商人たちの会話が聞こえているのか、聞こえていないのかは分からない。北の大陸出身だから、自分についての値段交渉がなされている言葉そのものがそもそも理解できないのかもしれない。
ジル・イルハムは「いつものことだ」とでも思っているかのように無表情に虚ろな目をして、ボロを身にまとい、隣で手枷足枷をつけられ突っ立っている。足枷からは鉄の鎖が伸びていて、商人の背後の壁に取り付けられた鉄の輪に南京錠で留められていた。
「こいつは男だぜ?別に色事に使えないなら戦争にでも送り込めばいい。力仕事だってできるぜ?使い道はいろいろだ。100なんかで売れるわけがない!」
タンヌロックの奴隷商人は顔の周りに濛々と生えた立派な髭を逆立ていきり立った。
「……分かった。……分かった、こいつは150で手を打とう。戦えるのか?」
「戦えるとも。こいつはウェセロフに滅ぼされたモフセン王国の戦争孤児だ。モフセンの残党狩りに追われていたところをウェセロフの人買いに捕まって、メラド共和国に売られたって聞いている。メラド共和国ではヴラディ伯爵にかわいがられて、いろいろ仕込まれたみたいだぜ」
売り手側の奴隷商人は、「ヒヒヒ……」とすりガラスを引っ掻くような掠れた不愉快なひき笑いをした。つられてジョゼッフォ・バイロウもふがふがと鼻を鳴らしながら笑う。
「あのヴラディ伯爵に仕込まれたのなら、多少乱暴に扱われても耐えられるだろうな。あの伯爵も飽き性だからな。慣れたころには売られるんだから、かわいそうなもんだ。まあ、いい商売相手だし、こっちは助かるんだがな。
クレメンテ、鍵を受け取り、そいつが逃げないように気を付けながら連れてこい。高い商品だからな、傷でもつくと困る」
ジョゼッフォ・バイロウは後ろに突っ立っていたクレメンテの名を呼び、150グリーグで購入した奴隷の受け取りを命じた。
売り手の奴隷商人は、背後の鉄の輪につけられた南京錠を外すと、
クレメンテはなるべく鎖を短く持ち、主人が新しく買ったばかりの奴隷が逃げないように見張りながら歩くため、斜め後ろに回ろうとした。肩越しにすれ違いざまに彼がぼそりと、彼にだけ聞こえるような声で、流暢な公用語で呟いた。落ち着きのある静かで穏やかな声だ。
「憐れむような眼でオレの顔、見ないでくれる?」
クレメンテはハッとして、思わず買ったばかりの奴隷の顔をまじまじと眺めた。
「……べ、別に!……憐れんでなんかねーよ!」
――オレの表情がそんなに他人を憐れんでいるように見えたのだろうか?
クレメンテは、心の奥底を見透かされたような気がして、慌てて語気を強めて否定した。
その声にジョゼッフォ・バイロウまでもが驚いて、クレメンテの方を振り返った。
否定された男の方は、何事もなかったかのように悠然とまっすぐに前を見据えたまま、頭すら動かさなかった。
これが、クレメンテ・ドゥーニがジル・イルハムと交わした初めての言葉だった。
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