祭日の夜、雪の夜

八百十三

祭日の夜、雪の夜

「ア・メリー・エドゥアールド・メッセー、ルスラーン!」


 クリコフ領の領都ヤノフスキーで、俺が一番通い詰めている酒場「シルバニ」に飛び込んでくるなり、ボルゾイの犬獣人であるアリョーナ・ゴンチャロワは大声を張り上げた。

 突然の来訪、突然の甲高い声に、何事か、と店内の酔客の視線が入り口に向く。

 そんなじろじろとした視線など意に介さない様子で、アリョーナは吹雪に吹かれて赤らんだ頬をそのままに、店内を奥へと向かってずんずんと進んでいく。

 彼女の視線が真っすぐ向けられているのは、誰あろう、俺だ。獅子獣人のトレードマークでもある、外の冷気など何ともしなさそうなボリュームのある鬣を一層膨らませ、眉間にしわを寄せ続ける。

 程なくして「シルバニ」の一番奥、俺が座るカウンター席の前までやって来たアリョーナが、満面の笑みで俺に手に持ったそれ・・を差し出した。


「やっぱりここにいた。はい、ルスラーン、ア・メリー・エドゥアルド・メッセー!」

「……ゴンチャロワ。どういうつもりだ」


 差し出された、お洒落な包装紙に包まれた『それ』を見やりながら、俺は機嫌の悪さを隠さないままに口を開いた。

 別に、友人であるこの犬獣人が馴れ馴れしく話しかけてきたとか、一人で酒を楽しんでいる時間を邪魔されたとか、そういうところに怒っているわけではない。

 ただ、今日はそういう日・・・・・で、彼女が手に持っているものはつまりそういうもの・・・・・・で。

 クリーム色の毛皮に皺を寄せる俺に、彼女は悪びれた様子もなく答えてくる。


「どうも何も、プレゼント。今日はエドゥアルド・メッセーでしょ?有り難く受け取りなさいよ」

「俺は今日という日にプレゼントをもらうような歳じゃないぞ、分かっているだろう?今夜に何杯ワインを飲んだと思っている」


 ぐいと包みを押し付けてくるアリョーナに、俺は肩を竦めながら答えた。胸元に押し付けてくるなら、受け取るより他にはなく。手に取ってみると、大きさの割に軽かった。

 今日は一月の七日、ルージア連邦の祭日の一つ、「エドゥアルド・メッセー」。北方聖教の重要な聖人、聖エドゥアルドの生誕を祝う日だ。

 大人はご馳走を食べながら酒を飲み、子供たちは老人マロースからのプレゼントを待ち望み、町中のモミの木が色鮮やかに飾り付けられる日だ。

 そう、プレゼントを貰うのは子供たち。俺は決して、子供と呼べるような年齢ではないのだ。だのにこの女は恥ずかしげもなく、俺にプレゼントを渡すという。

 素直にプレゼントを受け取ろうとしない俺に、アリョーナも不満を隠そうとしない。黒い鼻を膨らませて空いた腕を組んだ。


「勿論分かっているわよ、ルスラーン・ナザロフ。貴方が類稀なる酒飲みだってことも、もうすぐ三十三になるってことも、毎日こうして酒を飲み歩いていることもね。あ、隣空いてる?」

「空いてるよ……ったく、それで?なんなんだこれは」


 右隣のカウンターチェアを引いて、彼女を席に着くよう促した俺の視線が、手元にある包みに向いた。

 軽く、程ほどに大きく、そして硬さがある。一体中に何が入っているのだろう、形からして、酒ではないことは間違いないのだが。

 席に座ってカウンターに肘をつきながら、アリョーナが面白そうに笑った。


「開けてごらんなさい、きっと喜ぶわ」

「なんだ、勿体つけて……ん?」


 訝しみながら包装紙を丁寧に解き、中身を取り出した俺は目を見張った。

 薄紙に包まったドライフィッシュだ。アジだろうか、腹から開かれて開き干しにされている。ぷんと香る凝縮された魚の香りが鼻を突いた。


「……これは」

「ね?嬉しいでしょう?ドライフィッシュ、ヤパーナ産よ。高かったんだから」

「こんなものをエドゥアルド・メッセーのプレゼントに送る女がどこにいるってんだ……風情も何もあったもんじゃない。

 まあいい、マスター、焼いてくれ。これなら、ここで出す酒に合うだろう」


 喜色満面に俺に語り掛けてくるアリョーナに、あきれ顔で返す俺だ。

 いくらドライフィッシュの名産地であるヤパーナ産の品だからと言って、どう考えてもエドゥアルド・メッセーの日に送るような品ではない。場面にそぐわないとか、そういうレベルの話じゃない。

 俺は薄紙を取り除いたドライフィッシュを、カウンター向こうに立つ熊獣人のマスターへと差し出した。通い慣れて勝手も分かっているから、マスターは何も言わずに差し出したそれを受け取ってくれる。

 炙り焼き用の網の上にドライフィッシュを乗せるマスターの背中を見ながら、アリョーナがふんと鼻を鳴らした。


「風情がないって、どの口が言うの?恋人からのプレゼントを持ち帰らずにその場で食べるだなんて」

「俺にイヌ科の恋人がいたなんて記憶はないね。まぁ、君が誰であれ、プレゼントの礼に一杯くらいなら、奢ってやらなくもないが」


 彼女の文句に軽口を返しながら、俺は顎をしゃくって壁のメニューを示した。

 「シルバニ」の壁には黒板がかけられて、その日に飲める酒が一覧で書かれている。常時十種類はワインが並ぶので、この店に通うのはやめられないのだ。

 奢る、との言葉に表情を明るくしたアリョーナが、メニューに視線を向けつつ口を開いた。


「やった!じゃあそうね、白ワイン、甘口で爽やかなの。この店だと何があるかしら?」

「ふーん……じゃあそうだな、サンテ・アリーチアにしようか。フローラルでフルーティー、ムスカットの酸味が爽やかな酒だ。君の口にも合うだろう」


 アリョーナの希望を聞いて、壁のメニューに視線を投げる俺は、南方アルマ大陸の小国シーリのワインを選び出した。

 ワイン新興国ながら、コストパフォーマンスに優れたワインを産出するシーリは、既にワイン愛好家の間ではよく知られた国になっている。古くからワイン造りに携わっているプライスやダウチュのワイナリーも、シーリの台頭に戦々恐々としているという話をよく耳にしていた。

 俺の言葉を聞いて、早速マスターが新しいゴフレットにワインを少量注いだ。それを受け取り、鼻先に近づけたアリョーナがほう、と甘い息を吐く。


「ありがとうマスター……はぁ、いい香り」

「ルスラーンの見立てだ、まず間違いないだろうが……どうだいアリョーナ、具合の程は」


 片眉を持ち上げながら、マスターがアリョーナへと問いかける。

 ワインを提供する際に、まず少量注いで品質を客に確認してもらい、それからゴフレットに改めて注ぐのがルージア連邦の酒場の基本スタイルだ。安い場末の酒場でも、このスタイルを外してくる店はそうそう無い。確認させずに出す店があったら、よほど出す酒の品質に自信があるか、よほどマナーを知らない店主であるかのどちらかだ。

 しかして、アリョーナがマスターに向かって笑みを浮かべつつゴフレットを掲げた。味わいに問題はなかったらしい。


「ん……大丈夫よ、問題ないわ」

「それはよかった。サーブしよう、ゴフレットを貸して」


 微笑むアリョーナに笑みを返したマスターが、くいとワインボトルの口を持ち上げた。

 それに従いゴフレットをつい、とカウンターの奥に寄せるアリョーナ。細い指先の先端に生えた爪が、カチ、と背の高い杯の脚に当たる。

 そのまま静かに注がれゆく黄金色の液体。中ほどまでを酒で満たすと、マスターの節くれだった指がそうっとゴフレットに当てられた。そのまま、酒杯は俺の隣に座る彼女の前へ。

 満足そうに杯の細い足をつまみ上げると、アリョーナは朗らかな笑みを浮かべて手に持ったそれを掲げた。天井から吊られたランプの光が、金属製の杯の表面で反射して光る。


「それじゃ、聖エドゥアルドと、ルスラーンの慧眼に、かんぱーい」

「妙なものに乾杯するんじゃない」


 乾杯の発声に、素っ気ない言葉をかけて自分のゴフレットを手に持つ俺だ。

 聖エドゥアルドへの乾杯はともかくとして、偉大な聖人と俺の目利きを同列にして乾杯されるのは、どうにも座りが悪い。

 そのままぐいっと自分の杯に残った白ワインを飲み干すと、隣で同じようにワインを飲んだアリョーナがため息をついた。


「はー、美味しい。やっぱり貴方の見立ては万に一つの外れもないわね」

「そいつはどうも。だが俺だって、世界全てのワインを見極められるわけじゃないからな」


 満足した表情を浮かべるアリョーナを見て、ようやく表情を緩める俺だ。やはり、褒められて悪い気はしない。

 俺はワインが好きだ。ウォッカもウィスキーもやるけれど、一番好きなのはワインだし、得意分野もそちらになる。あちらこちらの街に行き、あちらこちらの酒場でワインを飲んできた俺の目利きは、今やちょっとしたものになっている。

 無論、「シルバニ」のマスターもワインの目利きについて素晴らしいセンスを持っている。飲んできたワインの種類も俺を超えるだろう。だが、俺の友人知人、ヤノフスキーの酒飲みは、店に問うより先に俺に問うのが通例になっていた。

 それでも、ワインの世界は殊更に広い。俺の飲んだことの無い銘柄なんてそれこそ星の数ほどある。今まで飲んできたワインの情報を組み合わせて、類推することこそ出来るけれど。

 ゴフレットを静かにカウンター奥寄りに置くと、ちょうどマスターが炙り終わって皿に乗せたドライフィッシュを持ってくるところだった。面白そうに片眉を持ち上げている。


「初めて飲むワインも飲む前から的確に分析してみせる凄腕が何を言うんだか。ほらルスラーン、彼女から送られたドライフィッシュだ。今飲んでいるシェーブリス、もう一杯やるかい?」

「ああ、頼む」


 表面が焼けて香ばしい香りを漂わせ、脂がてらてらとしたヤパーナのドライフィッシュを俺の前に置くと、カウンターの下から二本一対のチョップスティックを取り出した。そういえば東の島国ヤパーナでは、こいつを使って器用に魚を食べるのだったか。

 プライスの東部、ベルゴルニー領の銘醸地、シェーブリスの辛口白ワインをおかわりする。魚介との相性が素晴らしいこのワインなら、濃厚な味と芳醇な香りを持つドライフィッシュともマッチすることだろう。

 チョップスティックを魚の乾いた身に入れると、ほろりと解けるように身が分かれた。それを優しく摘まみ上げて、口に含む。噛むたびに塩気と魚の脂、濃厚な旨味が滲出してきて、非常に美味い。


「んん……流石の香り高さ。ヤパーナ産は伊達じゃないってところか。どこで手に入れたんだ、こんな上物」

「首都の冬市で買ったの。どう?私の目もなかなかのもんでしょう」


 食べ進める手と、注がれたワインに伸びる手が止まらなくなっている俺を見て、なんとも嬉しそうなアリョーナに声をかけると、にこにこと笑ったまま彼女が言う。

 首都クリコフスクの冬市はルージア連邦全土だけではない、近隣諸国からも商品が入ってきて売りさばかれる。ルージアとヤパーナは同じ海に面したお隣さんだから、ヤパーナ産のドライフィッシュも冬市には並ぶわけだ。

 それだとしても、こんな上等なつまみといい酒のマリアージュを味わえるとは、有難い話もあったものだ。自然と俺の上着の内側に手が伸びる。


「ああ……こいつはいい。ならそうだな、俺からも一つ、ゴンチャロワにプレゼントだ」


 そう言いながら俺が上着の内ポケットから取り出したのは、一冊の手帳だった。

 目を見開くアリョーナをそのままに、中のページを数枚めくり、あるページに目を留める。ミシン目が入って切り取りやすくなっているページを静かに切り取ると、その紙をアリョーナの前へと無造作に置いた。


「三番街、アブト通りのスルガノフ伯爵家。当主が、国営商社と裏取引をしているそうだ」


 先程までの声色とは打って変わって、低く冷たい、囁くような声。内容を耳にしたアリョーナの瞳も鋭く光り、獲物を前にした狐のように細められた。

 マスターはカウンターの向こうで素知らぬ顔をして、ゴフレットを磨いている。周囲の客たちは俺の声に気付く様子もなく騒いでいる。

 突然齎された、酒場の雰囲気には似つかわしくない重たい話。しかしアリョーナはそれを当然のことのように受け止め、渡されたメモを拾い上げて眺めつつ言った。


「ふぅん?確かなのね?」

「俺が一度でも嘘を流したことがあったか?」


 アリョーナの真剣な声色に、俺は冷徹な視線を返しながら酒杯に口をつける。

 そして俺の遊びのない視線を受け取ったボルゾイも冷たい笑みを返してくると、折りたたんだ紙片を胸元に収めて酒杯に手を伸ばした。中の甘口ワインを、一息に呷る。


「ありがと、また稼がせてもらうわよ」

「ああ、幸運を祈る」


 そうにこやかに笑いつつ告げて、カウンターの上にワイン一杯分の代金とチップを残し、アリョーナは颯爽とカウンター席を立って歩き出した。他の客には目もくれずにまっすぐ店のドアを開け、寒風吹きすさぶ街路へと飛び出していく。

 受け取った金を数えつつ、マスターがゆっくりとした調子で口を開いた。


「相変わらず嵐のような女だな。で、いいのかルスラーン、あのネタを手放して。スルガノフ伯爵絡みのネタなど、それこそ億は稼げるだろう」

「ああ、もう充分泳がせた。そろそろトドメを刺す頃合いだ。国営商社との裏取引など、他のネタに繋がる導火線でしかない。アリョーナならヘマもしないだろう」


 一仕事・・・を終えた俺がマスターと向かい合いながら、手帳をしまいつつ再び酒杯を傾ける。

 何も知らない者が今のやり取りを見たら何事かと思うかもしれないが、これがルスラーン・ナザロフという男のもう一つの顔だ。

 表向きは市中の酒場に連日赴いては静かに飲んだくれ、酒場や酒の紹介記事を書いたりとエッセイストのようなことをして生活しているただの市民だが、俺にはもう一つ、情報屋という裏の顔がある。

 酒場で耳にした市民の与太話や、酒屋や酒場の主人から入手したこぼれ話をきっかけに、ありとあらゆる手を尽くして人知れず情報を集めてまとめ上げ、それを自ら使うことはせずに然るべき能力を持ったエージェントに売りつける。その手腕はこのルージア連邦でも指折り、との噂だ。

 夜行性で静かに飛び、樹や葉に巧みに隠れる猛禽に準え、『ヤノフスキーの夜鷹よたか』という異名をつけられるほど。

 市中でさんざんその悪辣な言動とやり方を囁かれながら、決して警察に尻尾を掴ませないことである意味有名なスルガノフ伯爵だが、ルスラーンの手にかかれば悪事の証拠集めもこの通り、である。あとはアリョーナが上手くやってくれるだろう。


「『ヤノフスキーの夜鷹』の手にかかれば、あのハイエナ伯爵の悪事も丸裸ってわけか。全く、その鮮やかな手際には毎度のことながら惚れ惚れするね。お得意様になってもらってる甲斐があるってもんだ」

「いや、俺の方こそ情報の受け渡し場所に使わせてもらって感謝しているよ、マスター。足が付くといけないから、またしばらく来れなくなるな」


 アリョーナの使ったゴフレットを片付けて洗いながら朗らかに話すマスターに、ようやく緊張を解いた俺も空になった酒杯を差し出した。

 俺の情報提供の手法は些か特殊だから、それ故に見る奴が見ればすぐに気づかれるのが難点だ。

 俺が酒場で一人飲んでいるところにやって来て、隣の席に座る。俺に一杯酒を奢るか、つまみになるものを奢る。そいつを俺が気に入ったら、情報を提供する。こんな具合で、俺は仕事をしている。

 場所にする酒場はヤノフスキー内の酒場のどこか、でしかない。店は決まっていないし、固定の席があるわけでもない。「シルバニ」の他、行きつけにしている数店の酒場は、事前に連絡することで席を用意してくれるからやりやすいけれど。

 そんなものだから情報の出所がばれないように、俺は適宜『仕事』をする店を変えているのだ。

 マスターも、それをよく分かっている。何度もここで仕事をさせてもらって、その度にしばらく足を運ばずにいたのだ。今回も、そうなるだけという話である。


「ああ、そうだな。今日は心行くまで飲んでいってくれ。ほとぼりが冷めた頃に、またよろしく頼むよ」

「ありがとう。さしあたって、そうだな。俺にもサンテ・アリーチアを一杯」


 マスターの言葉に笑みを返しながら、俺はゴフレットを軽く掲げた。

 ルージア連邦がエドゥアルド・メッセーで沸き立つ中、一月七日の夜。

 夜の帳が落とされたヤノフスキーの片隅で、俺はもう一度『プレゼント』されたドライフィッシュの身を摘まみ上げて、静かに食むのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

祭日の夜、雪の夜 八百十三 @HarutoK

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説