第36話 武術大会《最終日/剣術》3

 試合場から降りてくるエマは、冷たい視線を向けるルキアを一瞥すると、つんと顔を反らせて横を通り過ぎようとした。

 ざんばら髪が可憐な容貌をきりりと引き締めている。そんななりでも美しく見える女など、広い世界を探してもそうそういないだろう。ルキアは、父の語る昔話――自らの母がその昔、男の姿で父を護衛していたという話を思い出して苦笑いを噛み締めた。


(母に似た女を選ぶと聞いたことはあったけどな)


 昨夜、エマとアリス、二人の様子を見て、すでに割り込めないと思った。来るのが遅すぎたと心のなかで嘆いた。吹っ切ろうと決めたのに、今になってこれほど惜しいと思うとは。これでは本気で一縷の望みに縋りたくなってしまうではないか。


「その頭、アリスが泣くぞ。自分のものになった女が、自分の知らないところで勝手に髪を切ったらおれならキレる」

「アリスはあなたじゃないもの。彼は私のすることに文句を言っても、否定はしないわ」


 軽く投げた言葉が鋭さを増して跳ね返ってきた。それが、自分が選ばれなかった理由。心がすりむけて、ひりつく。自信満々な顔がいっそ憎らしくて、ルキアは少々いじわるをしたい気分になった。


「今回ばかりは違うと思うけど。あいつ、見かけよりずいぶん過激だし」


 長い付き合いのエマだ。さすがに思い当たることがあったのだろう。目を一瞬彷徨わせる。だが、首を激しく振ると、不安を振り切るようにしてルキアを睨んだ。


「あなたはライバルなのよ? 動揺させようとしているのかもしれないけれど、おあいにくさま」


 ぷいと背を向けてずんずんと去っていくエマを見て、ルキアはため息を堪えた。

 家族以外で自分に対してこれほど手厳しい女は本当に珍しかった。

 ライバルライバル――という声が耳の中で鳴り響く。

 どうしてもそこから抜け出せないのだろうか。じくじくとした痛みをやり過ごしていると、うしろからよろよろとヘルメスが降りてくる。

 痛めつけられた喉を押さえ、憔悴した様子だったので道を譲ろうと一歩下がると、彼はなぜかルキアの前で立ち止まった。


「なあ」

「なにか?」


 今のルキアは他人を構う余裕などない。かろうじてよそ行きの笑顔を浮かべるが、ヘルメスは以前のように惚けることなく、真剣な目でルキアを見つめた。


「ルキア殿下。おれは、どうしてもあなたに勝ってもらいたいんだ」


 とたん、ルキアの頭のなかで、情報がいくつかつながって、形を作る。


「…………あぁ、そういうこと?」


 呟くルキアの前で、幽鬼のようになったヘルメスは再び足を踏み出した。彼は疲れた声でぼやく。


「なんでさっさとあいつを落としてくれないんだよ。いろいろ協力してやったのに――どいつもこいつも」



 *



 事件のことで父上と母上に話がある。そう言われてヨルゴスは息子の部屋へと向かっていた。

 何の話かはよくわかっていた。

 エマ襲撃の動機が賭博だなど、誰一人として信じていない。操った人間がかならずいると誰もが探っていた。

 そして、エマが襲われたとなると疑いをかけられるのが一体誰なのか。――疑うべきは誰なのか。

 先ほど別口で確証も出てしまった。だが、傷に響くから、回復するまでは伏せておきたかった。


「誰が何を企んだのか、アリスにわからないわけがないのよね」


 隣を歩く妻が眉間にしわを寄せている。この手の揉め事の時には、いつも彼女の眉間には深いしわが寄っている気がする。それ、そのうち戻らなくなるよ? と注意すると慌てて表情を和らげるけれど、すぐに元に戻ってしまう。可愛らしい顔が台無しになった原因に思いを馳せて、ヨルゴスは肩を落とした。落胆することは多かれど、絶望するのは実に二十年ぶりだった。


「僕も何度も釘を刺しておいたんだけどなあ。アリスもこの間、直接お願いに行ってきたらしいけれど、可愛い孫のお願いより野心が勝ってしまったのかな」


 穏やかでいられるのは、むしろ諦めの境地だからかもしれない。無念だ。ヨルゴスは心からそう思った。


「そこまでやるかしら? 昔ほど執着されていないと思っていたのだけれど……」


 意外にも妻は不可解そうだ。


「魔が差したんだろう。あとは本人に話を聞くほかないと思うよ。できるだけ早くね。例によってルティリクスが時間を稼いでくれているから」

「またあの人に貸しを作るの? ああ、いやだ」


 妻は相変わらず、ルティリクスを苦手にしている。それはルティリクスの方も同じだが。犬猿の仲というのはこういうことを言うのだろうが、間にヨルゴスとメイサが入るとうまくいくのだから、世の中はうまく出来ている。

 この関係を壊したくはない。ヨルゴスは急ぎ足で塔の回廊を歩いた。



 アリスの部屋の扉が厳かな音をたてる。静かに開かれた扉の向こうから、父と母が顔をのぞかせた。

 アリスが半身を起こそうとすると、父が制止する。


「寝ていないと駄目だよ。そして、本来ならしっかり眠っているべきだ」

「眠れないんだ」

「薬は? 睡眠薬も置いていたはずだけど」

「痛み止めだけ飲んだ。――……どうしてもお祖母様のことが気になって」


 嫌な予感がどうしても払拭できず、じゃまな熱と痛みだけを取り除きたくて、アリスは薬をさぼったのだった。


「母はカルダーノで寝込んでいるけど、おまえの無事を知らせればすぐに回復するはずだ」


 父は話題をすり替えるが、アリスはごまかされない。


「僕はそういう心配をしているんじゃないんだ」

「……うん、……おまえなら気づくと思っていたよ。だけど、僕達に任せておいて、おまえは休んでおいで」


 父は穏やかにたしなめた。だが目が凍えそうな光をたたえているのは、きっとすごく怒っているからだ。これほど父が怒るとなると、アリスの思い過ごしではなかったということ。確信を得たアリスは、小さく首を横に振ると呻いた。


「父上、違うんだ。僕が言いたいのは、たぶん父上の思っていることと真逆のことだ」


 父は祖母を疑っている。

 アリスだって、祖母が父の代で得られなかった王位を渇望していることも、そのせいでエマを邪魔者にしていることも知っている。

 いや、国中の人間が、そのことを知っていると言っても過言ではない。

 だから今回の襲撃事件で一番に疑われるのは、実は祖母、そして父と母なのだ。

 たまたまアリスが怪我を負ったから、表立って言うものがいないだけで、腹の底では思っているだろう。――エマを襲おうとして、返り討ちにされたのではないか、と。

 だが――


「お祖母様は、確かに僕を王にしたがっていた。だけど今まで僕の願いを聞いてくれないことはなかったんだ。僕はこの間カルダーノに行った時、王になるのならば、正々堂々と自分の力で王位を手にしたい、そうでなければ嫌だと伝えてきた。お祖母様は僕を信じて頷いてくれた。だから……おかしい」

「だけど、あの人は昔から――」

「いいや」


 アリスはまっすぐにヨルゴスを見つめて、頑なに首を横に振った。父と祖母の確執はよく知っている。だけど、父母、祖母にそれぞれ愛されているアリスは、父と同じ考えを持つことは出来なかった。


「お祖母様は変わられたんだよ。あの人は僕や、父上を悲しませるようなことはしないよ」

「…………それは、おまえが母を知らないから」


 父は昔から祖母のこととなるとどこか感情的になり、考えることを放棄してしまう。それは愛されたいという感情の裏返しだと、母が昔こっそりと教えてくれたことがあった。だけど長い間諍いが続いたものだから、なかなか素直になれないのだと。ほんとうに大人って面倒臭いわね、と母は寂しそうに苦笑いをしていた。

 どこか泣きそうな顔をして黙りこむ父の腕に母が手をかける。


「私も今回はアリスに賛成ね。あの人、馬鹿だけど、基本的には息子も孫もとても可愛いの」


 母は毒を吐きながらも、父を励ますように微笑んだ。いつも祖母と喧嘩ばかりしているというのに――いや、喧嘩ばかりしているからこそ、腹を割って話しているからこそ、祖母がどんな人間かを一番知っているのは母なのかもしれないとアリスは思う。強力な味方を得た気がしてアリスも父に向かって微笑んだ。

 父はしばらく難しい顔をしていたけれど、やがて「ちょっと頭に血が上っていたかもね」と小さく息を吐いて、表情を和らげた。


「母じゃないというなら――となると、一体誰が? 書記が勝ち抜き戦のくじをいじっていたんだが、それを指示したのが母だと言ったんだ。僕はてっきりヘルメスかと思っていたから焦った」


 父の言葉にアリスは目を見開いた。武術大会のもろもろの姑息な仕掛けは、アリスもヘルメスの小細工だと思っていたのだ。


「ヘルメスじゃない? 本当に? でもお祖母様が企んだって……剣術には僕は出ないのに、組み合わせをいじって何になるっていうんだろう」

「組み合わせで順位は多少変えることはできるからね。もうちょっと周辺を調べる必要はありそうだけれど。書記は南部出身でね。今のところ、ヘルメスとは繋がりを見つけられないし、まず、母の名前が出てくる事自体が問題だ」

 



 アリスはどうにも納得いかなかった。もしも本当に祖母が関わっているとしたら、もっとわかりやすくアリスを勝ちにいかせたはずなのだ。母のようにはっきりとは言えないけれど、祖母レサトは……すごく単純な人だから。


「だけど……ヘルメスはエマを目の敵にしていて、とにかく王位を渡さないように必死だった。弓術の時は失敗してたけれど、握手でエマの手に何か――たぶん松脂かな――をつけようとしていたし。馬術に関しては証拠はないけれど、体術でエニアスに負けろと指示を出したのも彼だろうし、くじをいじったのは確実に彼だと思ったんだけど……」


 体術の対戦はとにかくヘルメスに都合の良いものだったし、それがなくても動機の面で、王位を熱望しているヘルメスが一番怪しいのだ。

 だが、アリスはふと首を傾げた。


(だけど……、あれ?)


 弓ではルキアが一位になり、馬術ではエニアスが一位、体術ではアリスが一位となり……ヘルメスは全く結果が出せていない。卑怯な手を使っているというのに、いくらなんでも成果が出なさすぎではないだろうか。

 順を追って考えていたアリスだが、薬のせいか、頭がいつものようには働かない。そこに父がいつものように手がかりを出した。


「うーん、つまり、ヘルメスの狙いは大会で勝つことじゃないんだろうね」


 アリスははっと顔を上げた。

 ヘルメスは優勝したいのではなく、《王位》がほしい。最大のライバルであるエマが王にならなければ、彼に王位が回ってくる可能性は高くなる。そして、エマが王にならない方法がひとつあると思い当たったのだ。


「……ヘルメスは、ルキアを勝たせたかったのか。そして――」

「ルキア殿下の馬には薬は盛られていなかっただろう」


 思い返すと、ルキアはそれを知ってエマに馬を譲ったのだ。

 じゃあ、馬術でもヘルメスが薬を盛った? そう思ったアリスだったが、くじなどの姑息な小細工と、馬術での落馬を狙った悪質な悪戯がどうしても結びつかない。


「だけど、馬術で勝ったのはエニアスだ。それに、ヘルメスの望みがルキアの勝利なら、今更エマを襲う意味がわからない」


 結局わからなくなってアリスが頭を抱えると、父が「つまり、一人じゃないんだろうな」と呟いた。そして、


「とにかく僕はシェリアとカルダーノに行ってくる。母に話を聞かないと。おまえは体を治すことを一番に考えるんだ」


 と穏やかな顔のまま、しかし有無を言わせない迫力で言い聞かせると、母を伴って部屋を出た。

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