第35話 武術大会《最終日/剣術》2

 試合開始の声が高らかに響き渡った。

 エマは息を深く吐いて、頭二つ分上にあるヘルメスの顔を睨み据える。体格ではとても敵わないし、上から力任せに叩きつけられれば受け切れない。

 上段に構えるヘルメスは、エマが懐に飛び込んでくるのを今か今かと待ち構えている様子だった。それ以外の攻撃はありえないとでも言っているかのよう。


(読みが甘いの。それから、狙いがあからさますぎる)


 エマは心のなかでひっそり笑うと、剣を中段に構えたまま、ヘルメスに誘われるがままに懐に入り込む。

 ヘルメスはエマの読み通りに凄まじい勢いで剣を振り下ろした。

 風が舞い上がり、ひゃっとどこかで悲鳴が上がる。だがエマは直前で身をかがめて横に飛び退き、切っ先をくぐり抜けて、ヘルメスの剣を上から力いっぱい叩きつけた。


「うおっ」


 衝撃に耐えられず、ヘルメスはそのまま剣を床に叩きつける。そして突き刺さり、抜けなくなった剣に慌てた。


「勝負あったんじゃないの?」


 必死で剣を抜こうとするヘルメスに向けて、エマが笑って剣先を突きつける。だが、怒りに顔を赤くしたヘルメスは、左手でエマの剣をつかむと、一気に距離を詰めた。

 試合では重症化を避けるため、剣先の刃は潰されている。鋭く突いたりしない限りは切れたりはしない。だとしても、こういう風に追い詰められた場合、自ら降参するのが暗黙のルールだった。


(そうだった。相手は卑怯者――! 規則なんて守らないわ)


 一瞬の隙に、ニヤリと笑ったヘルメスはエマの頭上から、空いている方の右手を振り下ろす。剣に気を取られていたエマは避けきれない。


「っ――――」


 あっと思った次の瞬間だった。頭上で縛っていたエマの髪の束をヘルメスがぐいと握り、空中に釣り上げる。かかとが浮き、つま先立ちになったエマは、髪の毛を取り戻そうと暴れながら文句を言った。


「ちょ、っと、いくらなんでもこれは卑怯でしょ! 剣術では基本、服や身体を掴んだら反則よ!」


 そう言いながらも、それがまたもや暗黙の了解であることを思い出す。そもそも、武道というのは数多くの名もない規律の上に作られている。このように剣先を掴んで「参った」を無視されることなど想定外。


「そんな規則は知らねえなあ。どこに書いてあるんだ?」


 な? と審判にヘルメスは確認を入れる。審判は困ったように眉を寄せると、王に向かって指示を仰ぐ。

 父は難しい顔をしたまま、それでも反則だとは口にしなかった。


(確かに、文言がないのならば反則とはいえない……!)


 ここでエマに都合の良い規則をつくろうものならば、贔屓をしていると文句をいうものも多いだろう。

 エマは釣り上げられたまま、頭を必死で働かせる。

 剣を振り回そうとも、ヘルメスの左手の握力は思いの外強く、とても外れそうにない。多少動かすことはできるけれど、届く範囲は限られ、ヘルメスを傷つけられそうにはない。――となると。


(今、一番いい方法――)


 視界の端で刃が陽光に煌めいた。同時に閃いたエマは迷わなかった。


「エマ、やめろ!」


 ただ一人、エマの目論見に気がついたのだろう。ルキアの声が静止を促すが、構わずエマは頭を下げて右手を素早く手前に――己の頭へ向かって引く。

 

 はら、はら、はら――

 赤いものが視界に散ったのと同時に、エマはヘルメスの手から開放される。目を見開いたヘルメスを剣の腹で殴り倒すと、そのまま倒れこんだ彼の喉元に、今度こそ容赦なく刃を突きつけた。


「ぐおっ――」

「刃先が潰れていることに感謝するのね」


 頬を短くなった髪が撫でる。顕になった首筋を風が撫でると、浮いた汗が空にさらわれていく。


「降参しなさい。あなたの負けよ」


 エマは集中力を切らさない。なにがあろうとも、ヘルメスをこの剣の下から逃しはしない。


「お、おま――髪まで切るのかよっ、髪は女の命みたいなもんだろ……っ」


 往生際悪く、ヘルメスが剣先をつかもうとするので、エマはヘルメスの喉仏の下に潰れた刃を押し付けた。

 ごふっとえづいたヘルメスの手から、エマの頭から切り離された、長く赤い髪の束がこぼれ落ちる。毎朝侍女たちが丁寧に梳かしてくれた、長く美しい髪は、持ち主の身体を離れても光り輝いていた。

 周辺諸国と同じく、アウストラリスでも美しい髪は女性の美しさの象徴だった。だから、邪魔だなと思いながらも腰までの長さを保っていたのだ。

 侍女たちは嘆くでしょうね。そんなことが頭の隅をよぎるけれど、王位と秤にかけるのならば、惜しくなかった。


「王位には何ら必要のないものよ。むしろ、軽くなってありがたいくらい」

「…………狂、ってる。ついていけねえ」


 呻くヘルメスに、エマは微笑んだ。 


「どこが? 単なる価値観の違いでしょ。――審判」


 これ以上時間をかける必要はなかった。だけど、この男は一生負けを認めたりしないだろう。膠着状態を解除しようと、エマは審判に声をかける。呆然としていた審判は、動きのとれないヘルメスを確認すると、感嘆に似たため息を吐く。そして、厳かな声で告げた。


「――――勝者、エマナスティ王女殿下!!!!」


 エマが顔を上げ、そして晴れやかな笑顔を観衆に向けると、どどど、と地響きのような歓声が沸き上がった。



 かすかな頭痛を感じてこめかみを揉みながら、ルティリクスは民の激励を身に浴びる娘を見下ろした。彼女は視線に気がついたのか恐る恐るといった様子で玉座を見上げてくる。

 髪は肩にようやく届くくらいの長さになっていて、しかも長さがまるでバラバラ。美しい王女は、あどけない少年のように姿を変えてしまっている。

 一歩間違えばみずぼらしいと言われそうな姿をしていても、彼女の周りを包み込む空気は興奮に熱せられている。エマの表情が少しでも曇っていたら、このような空気は生まれていないだろうと思えた。

 ルティリクスは破顔する娘をどんな顔をして見てよいか逡巡したけれど、結局は苦笑いを返した。


「あいつはにも似たんだろうな……いや、つまりはおれの母の血か」


 隣国に嫁いだ妹がかつて男装していたことを思い出す。ため息を漏らすと、隣に腰掛けていた妻もあとに続いた。


「しょうがないわね。欲しいもののために手段を選ばないのが私達の家の血だもの」

「おまえでもそうするというのか? ……いや、したか」


 自分を王にさせるために全てを――命までもなげうとうとした妻を思い出し、言い換える。


「エマは私たちの子だものね」


 にこりと微笑まれて、ルティリクスは降参する。メイサはエマを安心させるように笑顔で手を振ると、


「でも……きっと怒る人もいるでしょうねえ」と、誰と名前を出すことはせずに溜息を吐く。


「あいつの母親だって、同じことをやってるが」


 同じく名前を出さすに言うと、妻は懐かしそうに目を細めた。


「そういえばそうだったわね」


 アリスの母――シェリアも若かりし頃、足首までもある自慢の銀髪をばっさりと切り落とした。金を作るためだったと聞くが、その時のヨルゴスの怒りは尋常じゃなかった。髪を切らせた男は別の理由で投獄されたが、二十年経つ今も牢から出てきていないと聞く。


「彼、彼女の髪を見つけるために国中を探しまわったそうよ。本人は『たかが髪よ、すぐ伸びるのに』って言ってたのにね」


 『たかが髪』――どうやら同じ感覚を持っているらしい妻に「おまえの髪の一本、爪の先まで俺のものだからな。勝手は許さない」と釘を刺すと、「あらあら、相変わらず横暴な王様ねえ」と首をすくめる。いつもどおり、物分かりの良い顔をして、さらりと流すつもりだろう。

 今言ったのは冗談じゃなくほとんど本気だというのに、耳半分で聞く妻にむっとした。


(どいつもこいつも男の独占欲を甘く見すぎだ)


 舌打ちしたい気分でルティリクスはルイザを呼び出して「エマの髪を回収しろ。あと簡単に整えてやれ」と指示を出す。

 その場にいて、今のエマの顔を見ているならばまだいい。だが、人づてに聞くとなると、受ける印象はかなり違ってくるだろう。

 もし自分ならばどうするだろう。


(いくらエマが自分で切ったと言ったとしても、原因を作った人間に殺意を抱く……だろうな)


 そう考えたルティリクスは、ヘルメスの命が危ない――そう思ったのだった。

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