第33話 愛情の量り方

 医師は「峠は越えました」と安心した様子で告げると、熱さましと化膿止めの薬を飲ませて退出した。

 アリスの母シェリアは、目を釣り上げ顔を真っ赤にして、


「この大馬鹿息子、腰抜けが変に格好つけようとするとろくな事がないのよ! 身の程を知りなさい!」


 と思い切り罵倒したあと、思わずこぼれた涙を隠すようにして部屋を飛び出していく。

 エマは唖然とし、アリスは苦笑い。ヨルゴスはやれやれと肩をすくめた。


「邪魔者はひとまず退散するけれど、エマは今日中に戻るんだよ。まぁ、アリスもその怪我じゃあ、どうにもならないと思うけれど、一応ね」


 保護者の顔で二人に言い聞かせたあと、きっとシェリアを追ったのだろう――少し慌てた様子でヨルゴスは部屋の外へ出て行ってしまう。

 アリスはベッドに横たわったまま。さすがに辛いのだろう。熱っぽい顔で枕に頭をうずめている。

 痛々しさに枕元の桶から布を取る。そして額に浮いた汗をそっと拭った。


「犯人、捕まったって言っていたわ」

「君を襲った犯人?」

「あなたを刺した犯人よ」


 ルキアの説明を聞いていた時には考える余裕がなかったエマだったが、安心したところで疑問がむくむくと浮かんできた。


「賭博をしていて、アリスに優勝して欲しくて、私を狙った、って言っていたけれど……」


 よく考えると引っかかる。

 不自然ではないだろうか。大体エマはこっそりと城を抜け出してきたのだ。エマがあの場所にいると、どうしてあの男にはわかったのだろうか? それに、たとえ莫大な配当金が手に入ったとしても、王族に手をかければ人生は終わりだ。そこまで愚かなことをするだろうか。――その男は、本当に犯人なのだろうか。

 エマがぼそぼそと疑問をこぼすと、「うん、気になるね」とアリスは頷いた。


「犯人は問答無用で縛り首よ。その前に確かめないと」


 なんだか嫌な予感がした。そわそわとするエマだったが、アリスは小さく首を横に振った。


「――だけど、今日のところはとにかく部屋に戻るんだ。そういう厄介事は僕に任せて、君は剣術大会のことだけ考えて」


 彼は目を閉じて、静かに諭した。


「早く戻ったほうがいい。寝ないと、明日に響く」


 アリスは外を見る。中庭の塀の向こう側には星がきらめいている。明日はきっと晴れる。決戦は近い。

 だが、エマとしてはやっと彼を取り戻した気でいたのだ。離れがたい気持ちが大きかった。


「私、もうちょっとアリスの傍にいたい。まだ安心はできないんだもの。看病しながらここで寝ては駄目? 宰相閣下に許可を取ってくる」


 立ち上がろうとするエマだったが、アリスが手を掴んで阻んだ。振り向くと彼は困った顔をして、大きく深呼吸をした。


「僕は、今、とんでもない勘違いしてるかもしれないから、なんていうか……自制心が働かない。――すごく危険なんだよ」

「勘違い……?」


 エマが首を傾げると、アリスはじわじわと顔を赤らめ、やがて耳まで赤くなった。


「どうしても『君が僕を好きなんじゃないか』って、考えてしまうんだ。もちろん好意を持ってもらってるってことはわかってたけど、その、ええと、それが家族愛だってずっと思ってて。さっきさ……君が、王位と同じくらいに僕のことを大事に思ってくれてるってのはすごくよくわかったんだけど、それは、家族として? 君の《大事》っていうのは、僕の《大事》と同じなのかな」


 今度はエマが赤くなる番だった。あの時は必死だったけれども、それは決してアリスに向けての言葉ではなかったのだ。盗み聞きをされたような居心地の悪さに、エマは照れ隠しも手伝って激高する。


「も、もしかして、き、聞いてたの!? どこから!?」

「聞こえてた。ルキアを選ばずに僕を選んでくれたことも、僕のために王位を諦めようとしたことも」


 真面目な顔で言われて、


(それってほぼ最初からじゃない!)


 エマの顔が凄まじい勢いで火を吹いた。


「ずるい!」

「僕だって起きたかったよ、本当に。ルキアに言い寄られてる時は、動きたいのに動けなくて狂いそうだった」


 アリスは答えを求めてエマをじっと見つめた。エマは観念する。


「私は、アリスが、好きよ。だけど――」


 同じかどうかなど、気持ちを取り出して量ることは出来ないのだからわからない。量れるとしたら相手への態度だろう。アリスの愛情の大きさはひしひしと感じているし、実際身を持って示された。だからこそ、簡単に同じだなど言えない気がした。


「……私、王位を捨てきれなかった」


 そうなのだ。確かに捨てようとしたけれど、結局はエマは王位を諦めると言えなかった。そんなエマが、彼の愛情を受け取るにふさわしいかと言うと違うと思う。そんなのは、傲慢だと思った。

 自己嫌悪に陥るエマに、アリスは生真面目な顔で言い聞かせた。


「それはちがう。僕が捨てさせなかったんだ。僕は、君に王位を諦めてほしくなかった。王位を諦めた君なんて、君じゃない。そうなったのが僕のせいなんて言うのはまっぴらだよ」


 だけど――、とアリスはくすりと笑った。


「気持ちはすごく嬉しかったんだ。……それに、君は、ルキアを拒んだ。それは、つまり、ルキアじゃなくて、僕を選んでくれたってことでいい?」


 茶色の瞳が熱を帯びて色を濃くする。間近で見つめられ、心臓がどくどくと騒音を立てる。

 見慣れたはずのアリスの顔なのに、今は妙に艶っぽく、魅力的に見える。それはエマが彼を異性として意識しているからなのかもしれない。

 肯定の意味を込めて小さく頷くと、逃げるようにエマは目をそらした。

 心臓が破裂しそうでとても目を合わせていられなかった。

 想いが通じたというのに、まだ喜びよりも戸惑いが勝っている。アリスが急に別人になってしまったように思えて、なんだか怖かった。


「わ、私、やっぱり、戻るわ」

「うん。それがいい」


 あっさりと頷かれて、エマが妙な物足りなさを感じた直後、アリスは手首を掴んで自分に引き寄せる。エマはバランスを崩してアリスの胸の中に転がり込んだ。


「アリス?」


 彼はエマの頭の後ろに手をやると、驚くほどすばやくエマの唇を奪う。かすめるような口づけに目を丸くすると、アリスははにかむように微笑んだ。


「エマ、――愛してる」


 彼はささやくと、もう一度エマにキスをする。驚きしかなかった先ほどのキスとはちがって、今度は全身が甘さでしびれた。

 エマの中を渦巻いていた戸惑いはじわじわと霧散する。

 関係は変わっても、エマはその変化を受け入れられる。むしろ心地よく、好ましい変化だと実感したのだ。

 ふわふわと甘い時間に酔い、このままずっとこうしていたいという気分だったけれど、アリスの怪我を思い出して、エマは彼の胸をそっと押して腕を抜け出す。


「アリスも、もう休んで。傷が開いちゃったら大変だし、痛いでしょ」

「君といると痛みも忘れる。だけど……、確かにこれ以上はきついかな。父上も釘を差していったし」


 苦しげにアリスが顔をしかめ、やはり無理をしていたのかとエマは慌ててアリスの上から起きあがる。


「武術大会での僕の出番はここまで。だから、明日は、僕の分まで君が頑張るんだ」

「ええ。そのつもり。勝ったら、あなたの企みを教えてくれるんでしょう?」

「うん。楽しみにしていて」


 くすりと笑うと、アリスは名残惜しそうに、もう一度エマにキスをくれた。

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