第32話 夢を叶える覚悟、夢を諦める覚悟
翌日も雨は降り続き、武術大会の順延が決まった。
雨だけが理由ではなく、事件の調査と、それから――目を覚まさないアリスの回復を待つためでもあった。
王宮医師によると、かろうじて急所は外れているとの事だった。だが、高熱が下がらず、意識も戻らないため衰弱が心配だとのこと。後は本人の生命力を信じるしかない、何かあればすぐに呼ぶようにと沈痛な面持ちで言うと、医師は部屋を後にした。
彼の父母は医師ともう少し詳しい話をするらしく、別室へと移動した。部屋に残ったのはエマとルキア。扉が閉まるなり、しんと静まり返った部屋にルキアの静かな声が落ちた。
「大丈夫だ。急所は外れているって言ったろ。熱さえ下がって意識が戻れば、アリスは助かる」
ルキアはあのあと、怒りに任せて捜索に加わり、犯人を捕まえてきた。犯人は武術大会の優勝者をアリスだと予想していた男だそうだ。その配当金に目が眩んで、魔が差した。アリスの優勝のためにやったと叫んでいたとルキアは説明した。けれど、エマはもはやそんなことはどうでも良かった。
アリスの額ににびっしりと浮いた汗を冷やした布で拭う。氷水に浸した布は瞬く間に温くなる。それが恐ろしくてたまらない。
「おまえは少し安め。明日は晴れる。試合はあるだろう」
ルキアがエマの手を取り、布を奪った。
「それどころじゃないでしょ」
「それどころじゃない? じゃあ、王位は諦めるんだ?」
「ちがう、そういうことじゃないの。今は、他のことを考えられないの」
「ふうん、王になりたいっていうのはその程度なんだ?」
非難されるとは思っていなかった。エマは、彼の非情な言葉に驚いた。
「ルキアはアリスが心配じゃないの」
「心配に決まってる。弟みたいなもんだから。だけど、俺は、ジョイアの皇太子だからな。身内が死にかけても国のことを一番に考えなければならない。恋人が死のうとも、政務を放り出すことは許されない。おまえはそれがわかっているのか? 王になるって覚悟は、本当にあるのか?」
「…………」
エマはわからなかった。今判断しろと言われても、到底出来そうにない。だって、今目の前で大事な人が苦しんでいる。もしかしたら――いなくなってしまうかもしれないのだ。
想像するだけで目の前が真っ暗になった。
「あるのなら、すぐに部屋に戻って寝ろ。おまえ、どれだけひどい顔してるか知ってる?」
とどめを刺すように言うと、ルキアはエマの二の腕を掴んで起き上がらせようとする。だが、エマはアリスの手を握って抵抗した。
「できないわ。アリスが目を覚ますまで、ここにいる」
抵抗すると、ルキアはひどく憤った顔でエマを見下ろした。
「アリスが死んだとしても、おまえは明日、俺に勝たなければならない。王になるっていうのはそういうことだろ」
なんてことを言うのだとエマは目を見開いた。そんな恐ろしいことを口にして、本当になったらどうしてくれるのだ。
「やめて。今は、他のことを考えられないって言ってるでしょ!」
「その程度なら――」
ルキアはエマの肩を掴むとベッドの上に仰向けに押し付ける。エマはアリスの手を握ったまま、彼の隣でルキアに押し倒されていた。
「今俺のものになってしまっても同じだろ? 試合に出ないのなら、どうせ明日には俺のものになるんだ」
試合に出なければ、エマは王位を放棄することになる。ルキアは優勝し、エマを妃にと求めるだろう。
わかっていても、それでもエマはアリスのことしか考えられない。ずっと彼が傍にいるのが当たり前だった。そして無意識にこれからもずっとそうだと望んでいた。
彼が隣にいるから、エマは王になることを目指せる。一人で王になどなれない。
「だとしても、私は、ここにいるわ」
この先何を選ぶことになろうとも、今はとにかく、アリスの傍にいたかった。それがエマの弱さ、詰めの甘さだろうけれども、人間らしさを捨ててまで王になろうとは思えないし、そこまで冷徹な王が良い王だとも思えなかった。
暴れもせずに静かにルキアを見上げる。髪が触れるほど近くにある甘く鋭い眼差しにも、今は心は揺るがなかった。
しばし互いの心を探りあうように見つめ合う。
やがて、彼はまいった、と小さくつぶやいて身を起こした。
とその時、計ったように扉が開き、ルキアはいたずらを見つかったこどものように飛び起きる。
「宰相閣下……!?」
エマもすぐに起き上がって衣服を整え、言い訳を探した。
いつもの様に穏やかな顔。だけど目だけが笑っていない。それはそうだろう。危篤の息子の隣で艶事など、どうかしているとしか思えない。軽蔑の眼差しを向けられると覚悟したエマだったが、
「まだまだだなあ」
ヨルゴスは、意味のわからないことを言いながらルキアを軽く睨んだだけだった。ルキアは一瞬目を見開く。そして「かもしれません」と苦笑いをしながらエマの隣を離れ、数歩下がった。
「エマ。ルキア殿下がおっしゃるように、君は少し休んだほうがいいね」
「でも」
エマは幼子のように首を横に振った。
「大丈夫、アリスはこんなところで死ぬほどやわじゃない。僕が言うことに間違いはないよ、知っているだろう?」
いつもどおりの穏やかさで彼は言った。彼が言うならそうなのかもしれない。縋るように見上げると、ヨルゴスは穏やかな表情でエマを見つめた。
「君にはしなければならないことがあるだろう。自分のせいで君が王位を放棄したら、アリスが悲しむよ。もう、戻りなさい」
「――違います。私のせいで、アリスは怪我をしたのです。だから、どうか、追い出さないで下さい。私を、ここにいさせて下さい」
懇願するが、ヨルゴスは小さくため息を吐いてやんわりと断わった。
「君にはまだその資格はない、かな」
どこか含みのある言葉だった。何を求められているのかを察したエマは、腹に力を入れると静かに言った。
「…………私、アリスのことが大事です」
「王位よりも?」
ヨルゴスはわずかに興味を惹かれた様子だった。エマは続けた。
「王位を捨てたら彼が助かるのなら、王位を捨てるくらいには、大事です」
「ふうん。……じゃあ、今すぐ捨てるといい」
一転して、ヨルゴスはひどく底意地悪い声色で言った。普段温厚なだけに、それは豹変といえるほどの変貌。背中がすっと寒くなり、エマは言葉を失った。この人は、本当にあの穏やかな宰相閣下だろうか。
「そうして、君はアリスの妃になって、彼を支えればいいんだ。君の
確かにヨルゴスの言うとおりだった。王にならなくとも、政治に関わる道はある。そこを強引に曲げようとするから、このような事になったわけで。
心が揺さぶられ、今にも捨てると言ってしまいそうだった。だけど、喉につっかえて言葉は出てこなかった。
先ほどルキアに迫られた時には王になることの覚悟を問われた。覚悟がないならやめろと。だが今度ははっきりと王位を捨てろと求められた。
今アリスの傍に残ったとしても、王位を諦めることにはならない。アリスが目覚めることに希望が持てる。ルキアはそんな逃げ道を用意してくれたが、ヨルゴスはそれを許さない。ここに残るのならば、王位を今すぐ捨てろと、逃げ道を完全に塞いでしまった。
「アリスが目覚めたら。私は……王位を――」
たとえ願掛けでしかなくても、言ってしまえば、口約束ではすまないことはわかっていた。眼裏に、たくさんの子供達の顔が浮かぶ。それからエマの夢を応援してくれた、父や母や祖母。
だが、エマはアリスの顔をじっと見つめて、彼らの面影を追い払う。
喉に張り付く言葉を無理矢理に吐き出そうとする。
(だって、アリスが傍に居なければ、王になったとしても何も成せない)
一人ぼっちの玉座はどれだけ冷たいだろう。エマは、そこに座りたくないと初めて思った。
「私は、」
だが、エマの宣誓を遮るようにか細い声が響いた。
「……ちち、うえ、それは僕の、計画と、ちが……」
驚いて振り返ると、アリスが薄く目をあけていた。暖かな茶色の瞳が次第に力を取り戻す。焦点を取り戻した目と目があったとたん、エマは弾かれたように彼の手に飛びついた。
「アリス!?」
「――っ!」
アリスは大きく呻く。
「痛かった!? ご、ごめんなさ――」
「エマ……無事でよかったっ……守れな、かったら、どうしようって、思って」
エマの腕を掴むとアリスは強引に引き寄せる。エマが寝台に倒れこむと、彼は横になったまま、怪我をしているとは思えないほどに力強くエマを抱きしめた。
アリスの体は熱く、汗で湿っている。彼に染み付いた麝香の香りがエマを包み込み、
(ああ、もう、これで、きっと大丈夫)
エマはアリスの生還を実感して思わず涙が出た。
「あー……よかった。ようやくお目覚めか」
ヨルゴスが心底ほっとしたように呟く。と、アリスはエマを離して不満気に彼を睨んだ。そして苦しげに息を吐きながらも、はっきりと苦情を言った。
「ちち、うえ……、僕のいないところで、エマを、追い詰めるのは、やめて下さい。たとえ、父上でも、それは許せない」
「僕だって、どうしてもおまえに目覚めてもらわなければいけなかったんだよ。だからいろいろ考えたら、これが一番だと思った。おまえはエマが傷つくことを死ぬより嫌がってるみたいだからね」
「俺は、エマを襲えば絶対起きると思ったんだけど」
ルキアがボソッとつぶやきつつ、やれやれと肩をすくめる。心底ほっとした様子に見えた。だが、今のは聞き捨てならなかった。
「え、さっきの、もしかして――演技!??」
目を釣り上げるエマの前で、
「考察と演技力が足りなかったんだよ。本気だったら、アリスはきっと起きてただろうけどね」
ヨルゴスがにこやかにルキアのミスを指摘する。アリスは顔をしかめてベッドに倒れ込んだ。
「父上も、ルキアも……ほん、とうに、悪趣味だな」
「おちおち寝てられないって思い出させてやったんだ。感謝しろ」
ルキアが笑いかけ、ヨルゴスも頷いた。
「大体、おまえが肝心なことを言わないでいるからこういうことになったんだと思うけどなあ。ちゃんとおまえがやろうとしていることを話せば、エマ王女だって悩まずに済んだのだろう」
アリスは「父上にはお見通しか」と小さくつぶやいたが、直ぐに「でも」と頭を横に振った。
「だめだよ。エマが油断する。エマは、追い込まれないと力を発揮しないから。だから、試合が終わるまでは言わないよ」
「長年見ているおまえが言うのならそうだろうけれど……だとしても、シェリアは怒ると思うよ」
「……母上、怒ってた?」
「そりゃあもうね。おまえ、ちゃんと説得できるのか? 彼女は口に出さないけれど、やっぱりおまえが王になることを望んでいるんだ」
親子の会話を続けるアリスとヨルゴスだったが、自分の名前が出てきては、黙っていられない。流れていく会話をせき止めるようにして、エマは口を挟んだ。
「何? 私がどうかしたの? 私に関係ある話なの?」
「だから、君が勝ち取るべきを勝ち取るまでは言えないんだよ」
苦笑いをするだけで答えてくれないアリスに、エマは苛立つ。
だけど、怒る余裕が出来た自分に気づいて、心底ほっとした。
「ほら、エマ。君は休まないと。僕は、もう大丈夫だ」
アリスはどこか嬉しそうな表情でエマを見つめる。どうしたのだろうとエマは首をかしげるが、
「僕の計画は、君がルキアに勝つ事が前提になってるんだ。だから君が負けたら、すごく困る」
そう言って、アリスはルキアに視線を向け、怪我を忘れたような清爽な笑みを浮かべた。
「あー……その勝ち誇った顔、最高にムカつく。心配して損した」
むうっときれいな顔をしかめたルキアが妙に幼く見える。こんな顔もするんだ――とエマは目を丸くする。
「二人とも、心配してくれて、ありがとう」
アリスが言うと、ルキアは目を釣り上げてアリスとエマに交互に指を突きつけた。
「――だがな、ここまで来たら俺だって意地があるから、負けてはやらない。明日に備えて、俺は寝る。エマも寝ろよ。負けたときに言い訳なんかさせないからな」
そう言うと、ふてくされた様子のルキアはさっさと部屋を出て行った。
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