第31話 同居できない二つの想い
そのころ、エマはひとりとぼとぼと町を彷徨っていた。
窓の外をじっと見つめていたら、雨で頭を冷やしたいと思った。気がついたら外に出てきてしまっていたのだ。城内で同情の視線を受けるのも嫌だと思ったら、いつの間にか城壁までもを越えていた。
アリスが言ったように、剣術で勝てばいいだけの話。そう自分に言い聞かせたし、母も「あなたなら大丈夫」、不器用ながら父も「まだ終わっていない」と励ましてくれた。だけど、エマは自分がか弱い少女であるといやというほど思い知らされて、自信を失ってしまっていたのだ。
三日間で一度も頂点を取れなかった。大誤算もいいところ。しかもそれはルキアが出場したからだけではないのだ。アリスにも負けて、剣術でもどうせルキアに負けるに決まっていて、ずっと見ていた悪夢の通り、エマは選択肢を持つことさえ出来ずに、望まない人生を歩むことを強いられる。
すぐそこまで迫り来るそんな未来への焦燥感をどうやって拭えばいいか、エマにはどうしてもわからないのだった。
土砂降りで薄暗い城下町をふらふらと歩いていると、エマの目の前には王立学院が現れた。ここ数日ずっと通っていたせいで、習慣づいてしまっていたのだろう。塀で囲まれた学院をのぞき込むと、ランプの光が教室から見えた。きっと授業があっている。
『お祭りの日くらい休みたい』という意見が嘆願書に紛れていたことを思い出し、小さな笑みがプクプクと泡のように浮かび上がってきた。だが、鬱屈を払うほどの威力はない。それでもエマは光に引き寄せられるように学院に足を踏み入れる。
すると、校舎にいた数人の生徒がエマを見て飛び出してきた。トニをはじめ、剣術の稽古をつけた生徒や、聞き取りをして悩み事を聞いた生徒たち。デジーもひっそり顔をのぞかせた。皆、雨にぬれるのも構わずに、エマを取り囲むと目を輝かせる。
「王女殿下!」
「武術大会、同点で一位なんですよね? さっすがああ!」
「明日は晴れますよ! だから頑張ってください! 殿下はすごく強いんだ、絶対優勝ですよ!」
「私、エマ王女に王様になってほしい。そうしたら、この学校、もっと好きになれそうだもの」
わらわらと取り囲まれてエマは涙が出そうになる。体術ではあれだけの醜態を晒したのに、まだ自分を信じてくれている人がいる。この子たちのためにもしっかりしなければと気持ちがしゃんとした。
「ありがとう、頑張るわ」
精一杯の笑顔を浮かべる。余裕が少し出来たとたんにくしゃみが出て、周りの子どもがくすくす笑った。
「風邪、引いちゃうわね」
急に雨に濡れる子どもたちが心配になった。授業の邪魔もしてしまった。惜しまれたが、エマは早々に学院を出ることにした。
「……帰らないと」
体が冷えては明日に響く。頭が働き出し、エマはにわかに慌てた。体調が万全でなければ勝てるものも勝てないのに。まるで負けた時の卑怯な言い訳を作りに来ていたかのようで、エマは己の浅はかさを恥じた。そのとき、
「エマ!」
聞き覚えのある声に顔を上げると、目に怒りを湛えたアリスがこちらへと駆け寄ってくるのが見えた。
「アリス……?」
「よかった、こっちに向かうのを見たって人がいて」
心底ほっとした様子のアリスが、エマに自分のマントをかぶせる。乱暴な仕草に身を竦めるけれども、彼はエマを叱ったりはせず、取り出した手巾でエマの頬を拭っただけだった。
「これ、いらないわ。アリスが風邪引いちゃう」
エマがマントを返そうとすると、アリスは頭の上からそれを押さえつける。
「大丈夫、僕は見かけより丈夫にできてる」
「……知ってる……けど、でも、気遣いは無用よ」
昨日の試合を思い出してエマが再び沈みかけると、アリスは真剣な眼差しでエマを見つめた。
「あのね。いくら頑張って男になろうとしてもね、君はやっぱり女の子だよ」
その言葉はエマの傷を抉った。現実をつきつけられて、エマの中で燻っていた怒りに火がつく。
「だからなに? あなたまで諦めろっていうの?」
「違うよ。エマ。君は君のまま、女の子のままでも十分いい王になれると僕は思ってる」
「意味がわからない。じゃあ、あなたは王にならないっていうの。全力でやるって言っていたのは何」
「僕は王子だから王を目指すべきだ。だから精一杯やるだけだ」
アリスは言葉を濁し、答えにならないことを答えた。
「はっきり言って。あなたは王になって私を妃にしたいのではないの? それなら、私の敵でしょう? これ以上こんな風に優しくするのは、やめて。はっきり言うと、迷惑よ」
八つ当たりもいいところだとエマは思う。だけど、野望のためにはアリスが――いや、アリスに抱いてしまう己の感情が邪魔だと思うのも事実なのだ。
だから、当事者のくせに部外者のような顔をして近づくのはやめて欲しかった。惑わせないで欲しかった。
アリスは傷ついたような目でエマを見つめた。
「今は、まだ言えないんだ。ただ、はっきり言えるのは、僕は君が好きだってことだけだよ」
またはぐらかされた。甘いだけの言葉はエマの不信感を煽る。どう考えても野心と恋心は同居できない。エマは王になりたければ、アリスを恋ごと切り捨てるべきだし、アリスはそんなエマが欲しいのだから、王になって無理矢理にでも手に入れるべきだった。もしエマがアリスならそうすると思った。
「だったら、私のことなんか構わずに王になればいいじゃない。そうして力づくで妃にすればいいんだわ」
「僕はそんな意味で力づくと言ったんじゃない」
「じゃあなによ」
「……」
アリスは黙りこみ、煮え切らない態度にエマは苛立った。
なんなのだろう。エマが恋の罠に引っかかって彼のもとに転がり落ちるのを待っているのだろうか。そうしてエマに自主的に王位を放棄させようとしているのだろうか。だとしたら、お生憎様だ。
歩み寄りは不可能だとエマには思えた。
アリスに背を向けると駆け出した。
「エマ!」
呼びかけを無視してエマは逃げ出した。――だが、突如路地から黒い影が現れ、エマの足は止まった。視界で銀光が瞬き、ぎょっとする。影の手元には刃物が握られていたのだ。エマはとっさに後ずさる。寸でのところで切っ先はエマの服をかすめただけだった。
「エマ、逃げろ!」
後ろでアリスが叫ぶ。だが、水を吸ってまとわりつく服がエマの動きを鈍らせた。ぬかるんだ地面に足をすくわれ、エマは後ろに尻餅をつく。
機を逃さず、人影が襲いかかった。乱れた剣筋を見て、相手は本気だとすぐに分かった。これは剣術の試合ではない。実践だ。命の取り合い。エマの経験したことのないものだった。
(やられる――)
命あっての物種。エマはとっさに取捨選択をした。左腕を盾にして急所をかばう。――だが、刃物が刺したのはエマの腕ではなかった。
「え……アリス?」
エマに覆いかぶさったアリスの背に刃物が突き刺さっていた。
「――アリス!!!!」
うめき声と同時にアリスが崩れ落ち、エマは絶叫する。
「うそ、いや、やめて――」
「こんな、こんなはずじゃ――俺、おれの計画が――おれの金が――!」
頭上で動揺した男の声がした。だがエマにはすでに聞こえていなかった。恐る恐る背に手を回してみると、そこは雨ではない温かい液体で濡れていた。
「アリス、アリス、アリス――」
いくら呼んでもアリスは目を開けなかった。
どくり、どくりと滴り落ちる血とともに、アリスの命がこぼれ落ちていくように思えた。かき集めても元に戻らないと知っていても、エマは必死で手のひらで彼の傷口を押さえた。
おねがい。
お願い、この血をだれか止めて――
「だれか、だれかっ!!!!」
エマが狂ったように叫ぶと学院から人が出てきて、倒れたアリスを見ると次々に悲鳴を上げる。学院の医務室にアリスが運ばれると同時に、応急処置が施されはじめる。王宮医師を呼びに使者が出される。その間、エマはアリスの傍でずっと彼の手を握りしめていた。
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