第30話 雨の運んだ余暇
武術大会最後の剣術の試合が行われるというその日、アウストラリスはめずらしく雷雨となった。いつもならば乾ききった大地を潤す恵みの雨を民は喜ぶのだけれど、祭りの中断が言い渡されると、皆顔を曇らせた。
ぽっかり空いてしまった時間を潰すように、アリスの部屋にはルキアがやってきている。アリスが呼んだのだのだが、彼の方にも話したいことはたくさんあるようだった。
稲光の差し込む部屋の中、椅子と茶を勧めると、彼は遠慮なしに両方を受け取ったあと、待ちきれないように口を開いた。
「負けてやればよかったのに。どうせおまえ、剣術はからっきし駄目だろう? 最初から優勝を狙ってもいないくせに、どうしてあんな風に邪魔をする?」
彼が苛立っているのは、エマが誰の目から見ても痛々しいほどに落ち込んでしまったからだろう。だがアリスだって彼女を傷つけたくてやったことではないのだ。一番傷の少ない方法を選んだ、ただそれだけだった。あの時のアリスにはあれ以外の方法を取ることが出来なかった。
「あのまま押さえこんでてくれたら、そうしてた。だけど、あれだけあからさまに技が解けたのに逃げないわけにいかないだろう?」
ルキアならわかってくれると思っていたが、そうではなかったようだ。言い訳じみていると思いつつも弁明すると、ルキアはニヤッと笑った。
「お前が、エマの胸を味わいたかったように見えるからってこと? 清純さが売りのおまえにとってはさぞかし不名誉なことだろうしな」
アリスは頬に朱が走るのを自覚する。無駄な肉などないのに、しっかりと柔らかかったエマの体の感触は、まだ鮮明に残っていた。だが、あんな風に偶然の産物みたいに味わったって罪悪感のほうが大きくて喜べたものではない。
「僕の名誉なんかどうでもいいよ。エマが女を武器にしたようにみえるのが問題なんだ。それに、あのときもし僕が逃げなかったら、」
「なんらかの別の力が加わってると思われても仕方がない、ってことか」
途中で遮られてアリスはむっとする。先ほどの胸云々の一言は、アリスをからかうためだけに言ったのだろう。アリスは気分を害しながらも頷いた。
不正がはびこっているのは見るものが見ればすぐに分かる。その程度の低俗なものだと、民が儀式を軽んじれば、エマには特に不利に働くだろう。エマは王の愛娘なのだ。アリスが少しでも手を抜けば、王の圧力に屈したように見えてもおかしくない。つまりアリスにできることは全力でたたかうこと。そうでないと彼女を疑惑の目から守れない。
「……とにかく、寝技だけは彼女にさせたくなかったのに」
押さえられても押さえこんでも、あのように――中身の苛烈さは置いておいたとしても、外見が――可憐な少女であれば好奇の目で見られてしまう。だから寝技を最初から狙っているヘルメスと戦わせなければ、彼女を守れると思っていた。だが――あんな結果になろうとは。
「過ぎたことを言ってもしかたがないだろう? だから俺にわざと負けろと言う気か? それは出来ない相談だから。俺の今の武器は武術大会でエマを賞品にもらうこと、ただひとつなんだからな」
ルキアは頼みもしないことを勝手に言い出して、勝手に断った。以前はこんなふうに噛み合わないことはなかったのに。エマを間に挟んだあとから歩調が合わなくなっているのだろう。
兄と弟のような気のおけない居心地の良い関係だった。惜しく思いながら、アリスはため息をつく。
「そんなことを言うために呼んだんじゃないよ。そうじゃなくて、馬術の時から気になってたけれど、何か変だと思って」
「何が?」
アリスはエマを取り巻く悪意が気になっていた。弓術、体術ではわかりやすい妨害作戦を取ろうとした男がひとり居たけれども、まだ予想の範疇だった。問題は、馬術だ。あれだけ、質が違った気がしたのだ。ひどく悪質で、そして陰湿で計画的。犯人は彼かもしれないが、だとすると矛盾があった。
(じゃあ、一体誰が?)
王位継承権を持つ王子たちは四人。だがその中で本当に王になりたいと思っている人間はおそらく一人。しかし、その男がエマを妨害しているかというと、違うのだ。
何か、ずれている。たぶん、皆が皆、らしくないのだ。それは、アリスと眼の前にいるルキアも含めて。
「ルキア、君は――」
アリスが胸の中の違和感を吐き出そうとした時だった。バタバタと足音が響いたかと思うと、大きな音を立てて部屋の扉が開いた。
現れたのは赤茶色の髪を後ろに束ねた凛々しい女性。どこかで見たと思ったら、エマの乳母であるルイザだった。取次ぎをしていた侍従が後ろから現れて「ここをどこだとお思いですか! 突破するなどいくらエマ殿下の乳母であろうと――」と抗議しはじめるが、ルイザはすさまじい剣幕で「苦情は後でいくらでも聞きます!」と侍従を黙らせる。
「エマ殿下はこちらではありませんか!?」
「エマ? エマがどうかした?」
「今朝から寝込まれていらっしゃったのですが、寝室を覗いてみるとベッドに人形を隠して抜けだされていらっしゃって。陛下にご報告しましたら、アリスティティス殿下のところだろうとおっしゃって」
アリスは中庭の樫の木に目を向けた。エマはよくそうやって部屋を抜け出してアリスのところへやってきていた。そうして、向かう先がアリスの部屋でない場合は、たいてい無茶をする時だった。
以前、彼女が闘技場へと決闘に向かったときのことを思い出したアリスは、椅子から立ち上がると身一つで塔を飛び出した。
「どこだ? アリス、思い当たる場所は?」
「わからない」
ルキアがついてくるが、アリスは振り切るように走りだす。そして無駄だと思いながらも衛兵に声をかけてエマの姿を見なかったか確認した。
彼女は城の警護の抜け穴をよく知っていて、見つからずに城壁の外まで出ることができる。
「時間が惜しい。手分けして探そう」
ルキアの声に頷くと、雨で薄暗い街の中をアリスは赤い髪を探して駆け抜けた。
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