第29話 武術大会《三日目/体術》5

「あなた、本当に勝つつもりなの」

「一つくらい君に勝てるものがないと、君を下さいなんて言えないかなって」


 アリスは真面目にそう言うけれど、(たとえ歓声で聞こえなくとも)公衆の面前で口説いているという自覚はあるのだろうか。エマは一人赤面し、落ち着かない気持ちになった。


「試合中です。私語は謹んで下さい」


 聞こえているのだろう。口元の緩みかけた審判がこほん、と小さく咳払いをする。いたたまれない気持ちでエマはアリスを睨んだ。


「心配しなくても大丈夫だよ。君は欲しい物を絶対手に入れられる」

「それが、戦っている相手に言う言葉? だとすると、ずいぶん舐められてる気がするわ」

「違うよ。単に僕は君が大事だから……――ところで、全然攻めてこないね。組み方が中途半端」

「あなたもよ」


 もうはじめ、の合図はとうに済んでいた。忘れかけるくらいに、どちらも攻めあぐねていた。エマはアリスに手首を掴まれるのを嫌がったし、アリスといえば、そもそも、エマに攻撃をされない限り技を出す気がないようだ。


「僕の知っている武術は、身を守るためのものだから」

「埒があかないじゃない。このままだと二人とも反則負けでしょ」

「そうだね。だからひとまず組ませてくれないかな」

「いやよ」


 エマは困惑していた。アリスが決勝にいるだけでも混乱するのに、こんな状況は想定していない。互いに相手の勢いを利用した技を得意とするのだ。相手が動かなければ、エマの力では得意技は使えない。もし動いたとしても、手首を掴まれれば一回戦二回戦と同じく、エマも関節技の餌食になる。それは避けなければいけなかった。

 エマは必死で考える。ルイザに即席で叩きこまれた技がいくつかあったはず。中には組まずに腕を取られる事なく、そして力を必要としない技がなかったか。


(そうだわ。手を取らなくて済む技なら――)


 圧倒的に不利な技ではある。だけど、アリスもそれだけはないと考えるだろう。そこに勝機があるとエマは考えた。

 審判が組み合わない二人の動きを止めて、「次、試合が止まったときは、お二人とも反則負けになります。決勝戦です、皆が善戦を期待しております」と釘を刺す。

 エマは喉を鳴らして干からびた喉をなだめる。


「いくわよ」


 静かに頷いたアリスは、わずかに目を細める。真剣な面持ちにエマの胸がどくんと大きな音をたてる。


(来る――)


 残り時間もない。これが最初で最後の機会。エマはアリスの襟元を両手でしっかり掴むと、腰をかがめて自ら後ろに倒れる。アリスの体の下に潜り込むと、背中を地面につけ、足でアリスのお腹を蹴りあげて後転する。アリスの身体が空中に浮いた。


(やった――――)


「――!!?」


 だが、さすがにアリスは決勝まで上がってきただけある。簡単には投げられてくれなかった。


「なんで得意技で投げないんだ? 技が甘すぎて、かかってやれない」


 アリスは意味不明なことを言うと、とっさに腕を地面について、背中から落ちるのを堪えた。


(まだよ!)


 だが、エマの真の狙いはこれから先だ。ルイザ相手に何度も練習した技。横倒しになったアリスに飛びかかると、彼の頭上に回りこんで、頭と腕を身体で押さえこんだ。


(やった……!)


 固め技が決まったとたん、エマは歓喜に震えかける。この状態で審判が三十数え上げれば、エマの勝ちだ。


「一、二、三――」


 アリスは少し動いて逃れようとしてみたものの、五数える頃にはびっくりするほどおとなしくなる。ぴくりとも動かなくなった彼を見て、降参を言い出すのだとエマは思った。だけど、アリスの口から漏れたのは苦しげにかすれた一言。


「エマ、これは――寝技はダメだ。勝っても負けても君のためにならない、僕は――、だから」


 アリスの様子のおかしさに首を傾げかけたエマは、「……九、十、十一、……」という審判の声に混ざった嘲るような声を拾った。


「こりゃあいいや。俺なら勿体無くて動かねえな」


 両脇を思い切り締めて、彼の腰の辺りの布をたぐり寄せる。技を解かれないよう集中しながら周囲を見回すと、ニヤニヤしながら観戦するヘルメスと、難しい顔をしたルキアが目に入った。ルキアと目が合うと、彼はちょんちょんと自分の身体を指さす。それがどこを指さしているのかをゆっくり考えて、そこに当たっているのが何なのかを思い浮かべて、エマは目を見開いた。


「……二十、二十一、」


(ん? ……胸?)


 エマは今、アリスの顔に腹を、アリスの胸に自分の胸を押し付けて押さえ込んでいた。彼が技を解いて逃れようとすれば、確実に胸に顔をうずめてしまうだろう。だから、彼は動けない。


(そ、そういうこと――)


 理解したとたん、エマは一気に耳まで赤くなった。と、同時に、急激に硬い胸を意識して思わず身体を浮かせる。緩んだエマの腕の中でアリスが腰を大きく反らすと身体を一回転させる。


(しまった)


 動揺するエマの首の後ろに手をかけると、逆に身体をひっくり返され、床に押し倒される。首を胸の中に抱え込まれて腕を固められ、エマは完全に押さえ込まれる。二十八まで数えた審判が、アリス優勢の声を上げる。形勢逆転の瞬間だった。

 どっと観衆が湧き上がり、エマは全身の血が逆流する思いだった。歓声にはあからさまに野次や嘲笑が混じっている。思わず漏れたといった様子のそれに、羞恥と屈辱で死にそうになる。


(私は、大馬鹿者だわ)


 決して場外の声に気を取られてはいけなかったのだ。気づいたとしても、腕をゆるめてはいけなかったのだ。たとえ胸にアリスの顔を埋めたとしても、だから何だというのだ。それでも勝利をもぎ取れる――女であることを捨てる。それが王になるための強さではなかったか。


 性別の違いを乗り越えなければいけなかったのに、出来ずに己を窮地に追い込んだ。これほどの恥があるだろうかと思うと目尻が熱くなる。


(もう、ダメだわ。私――こんなんじゃ、もう優勝したって、女だから無理って言われてしまう)


 後悔と自己嫌悪が身を焼く。今にも涙がこぼれそうで、エマは焦った。こんな状況で、しかも大勢の面前で泣いてしまえば、もうエマの野望は潰えたも同然。だけど、エマと同じくらい真っ赤な顔をしたアリスが顔を傾けて、エマの涙を観衆から隠した。同時に彼は耳元で苦しげにささやく。


「これ以上、観衆の目の前でこの姿を晒すのは、よくない」


 たしかにそうだろう。アリスはあくまで最低限の接触しかせず、首と肩を固めているだけだが、男に押さえこまれた状態はエマの主張したいを否定するものでしかない。

 エマは目をぎゅっとつぶって首を横に振った。そしてもう一度足を振り上げて、技を解こうとする。

 だけどアリスの身体はエマより一回り大きいのだ。しかも上半身の要所を正確に固められ、動くことがまるで出来ない。


「頼む。早く終わらせたいんだ」


 降参を薦められて、


(じゃあ、あなたが負けてくれればいいのに。負けてくれてたらよかったのに)


 エマは心の中で叫ぶ。だけど、そんな卑怯な真似で勝って何になるというのだろう。手加減されて勝ったとして、王たる資格を得ることができるのか。甘えた幼稚な考えが、彼女の中の自尊心を大きく傷つけた。

 アリスはエマの心を読んだかのようだった。それでも彼女を責めることなく、優しく言った。


「君には剣がある」


 だから大丈夫だ、そんな声が聞こえた気がした。エマは最後に一度体を捻って悪あがきをしたが、腕も肩もまるで動かないことを悟る。


(こんなふうに立ちふさがるのが、よりによってアリスなんて)


 いや、知っていたはずなのに。彼が最大のライバルだと。勝手に油断したのはエマだ。


(油断しないって言ってたのに。私、どこまで詰めが甘いっていうの……)


 観客の声援が全て嘲笑に聞こえた。惨めさのあとに、エマの全身を覆い始めるのは絶望だった。エマは静かに口を開いた。


「…………まいった、わ」


 その瞬間、エマは、世界が終わったかのように思えた。



 *



 城が第三王子の巻き起こした波乱で揺れるその頃、城門の外では、火酒を浴びるように飲み、赤い顔をした男たちがたむろっていた。空気は酒の臭いで淀み、息をするだけで酔いそうなくらいだった。

 天井から吊るされた煤で真っ黒なランプの下では、城内の闘技場に入ることの出来ない男たちが、今か今かと知らせを待っていた。

 何十年かに一度の大きな祭りだ。王族を馬のように扱うことを不敬だという者もいるが、知ったことではない。酒と賭け事なしでは盛り上がれない。そう思うのは何も庶民だけではないらしい。

 テーブルの一席に座っていた男は、何気なく酒場の中央に座る男を観察した。

 真っ黒なフードを被っているが、なぜか全く暑苦しく見えないのは、きっと容貌がなかなかに整っているからだろう。年齢はおそらく四十は超えていると思えるが、不思議と品があった。彼が胴元らしいのだが……どこぞの貴族が後ろにいるという噂はおそらく真実だろう――そんな風に男が思った時だった。

 ばたん、と大きな音を立てて扉が開き、使いっ走りの少年が走り込む。彼の小さな手には城内で行われた試合結果が握りしめられている。小さな紙切れを覗きこんだ男たちが一瞬の沈黙のあと、呻くように漏らした。


「嘘だろ。エマ王女でなくて、アリスティティス王子かよ!」


 賭けに乗じた者で貸し切り状態の場末の酒場は、一気にどよめきでうめつくされた。


「お前、こりゃ、まさかの大穴が出るかもな」

「第三王子に賭けてるやつ、いるのか?」

「そりゃ、一人や二人酔狂な奴はいるだろ。こりゃあ、ここの掛け金、全部持ってかれるな!」

「一番人気のエマ王女、僅差で追うジョイアの皇子。三位はヘルメス王子……アリスティティス王子は下から数えたほうが早いぞ? ここで五点獲得したら、番狂わせもいいところだ。これでエマ王女が二位で三点獲得。ルキア皇子と同点で並んだ。剣術の結果次第か……今日にでも決まっちまうんじゃねえかって思ってたんだが」


「おれ、持ち金全部エマ王女に賭けてたんだがなあ。さすがにここまでかな。ジョイアの皇子はかなりの使い手だって聞くしよ。あっちの剣聖が師匠とか言ってた。ガタイもいいし。エマ王女はあのひょろっとした第三王子に負けるくらいなんだしよ、やっぱりお姫様じゃあ分が悪いってことだろ」

「あー、前情報通りなら、楽に小遣いを増やせると思ってたんだがよ」

「そういう奴ばっかりだよ今回は。だれだよアリスティティス王子は武術はてんでダメだとか偽情報流した奴は」

「ま、俺は小遣いがなくなるくらいですんでよかったけどよ……夢見させてもらったと思うか」

「俺も……」


 テーブルは一気に辛気臭くなる。そんな中、青い顔をした男が一人、酒場の隅で必死で膝の上の手を握りしめていた。

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