第13話 陛下がお呼びです

 アリスは両親に宛てた置き手紙を机の上に置くと、めったに佩かない剣を腰にぶら下げて重い足を進めた。

 命の危険が迫っている――そんなときに笑えるほどアリスは強くない。



 先ほど王の侍従であるセバスティアンがアリスを呼び出しにやってきたのだ。青い顔をしてきょろきょろと落ち着かない中年の侍従は、開口一番、挨拶もなしに「陛下がお呼びです」と言った。

 アリスは呼びに来たのがセバスティアンであることで、ある程度の覚悟をする。呼び出しの理由はエマを泣かしてしまったことだろうか。

 だが、セバスティアンの言葉はアリスの想像の上を行った。


「殿下、エマ王女に手を出されたのですか」


 侍従の言葉には絶句してしまう。どこから漏れたかなど考えるまでもない。密室での出来事を知る人間など一人しかいないのだ。


(まさかエマが? そういうことまで父親に言うのか!?)


 エマならありえるから怖い。羞恥と恐怖で叫び出したい気分になるアリスの前で、セバスティアンは勝手に説明しだす。


「あの方の女性遍歴は異常なので、女性の変化には目ざとくてですね――あ、王妃を娶られてからは嘘みたいに一筋ですけれどね。ほら、王女があまりに傷心のご様子でしたので。『原因はアリスだろう。しかもただの喧嘩じゃない』――と目星をつけられまして」


 セバスティアンは腕を組み、王の口真似をするが全く似ていない。そしてよく考えると勝手な暴露話など、色々と不敬である。だがそれを衝く余裕などアリスにあるわけがない。

 血の気が引いて固まったままのアリスに、


「お気の毒ですが、相手が悪かったようですね……いやはや」


 セバスティアンは薄くなりかけた髪をがしがしとかきかけて、すぐに手を止めた。


「あぁっ、この癖が悪いと宰相閣下にご指摘いただいたのに! これ以上薄くなったら妻に見捨てられる……!」


 と聞いている方が困るような事を言う。いつまで続くかわからない漫才にも似た独擅場をアリスは遮った。


「それで、あの――僕は命の覚悟をしないとまずいってことなのか?」


 出来ない侍従は目を潤ませると、頷く。おいたわしい――と嘆いた。

 先延ばしはさらなる不興を買うだろうとアリスは焦り、要領を得ない侍従に尋ねた。


「今から伺えばいいのか? 王の塔でいいのか?」


 闘技場への呼び出しでもおかしくない。そう震えるアリスだったが、セバスティアンの言葉はやはりアリスの予想からは斜め方向にずれていた。


「ああ、陛下と言っても殿下をお呼びしたのは王妃陛下ですがね。王に内緒でお話を聞きたいと。そんなことを王妃に頼まれたと陛下に知られたら私の首が危ない」



 王妃陛下との密会。背徳的な響きの言葉の並びだが、それは死を覚悟するべき恐ろしいことであった。

 幼いころはわかるわけもないけれど、成長とともに、ある日突然のように理解できるようになった。

 おそらく、王妃に対してはじめて色香を感じた時だったと思う。

 それまでは、エマの母上だという認識しかなかったのだが、ある日驚くほど鮮明に浮かび上がった感情があった。ああ、この女性は凄まじく美しいと。すべての男の理想を具現化したような存在だと。

 意識してしまうと、以前のように子供の顔で接することができなくなった。己の感情を隠すことが出来ないことを本能で理解していたのだと思う。

 だが、困ったことに、王妃陛下の方は警戒心が欠如しているのだ。

 この間、輸入物の檸檬が余ったからと届けさせたら、手作りの菓子を持って自らアリスの塔まで来られたのだ。王妃自ら焼かれたという焼き菓子は、檸檬の皮を混ぜ込んで焼いたもので、香りがよく、とても美味しかった。

 けれど、もしこのことが王に知れたらと思うと気が気でなく、途中から味がなくなった。

 過去に王妃に求婚しようとして消された男は数知れず。どこまで本当か知らないけれど、あの美貌だ。言い寄る男は星の数ほどいてもおかしくない。

 父は「あながち間違いじゃないよねえ」と母と笑い合う。昔なじみの言うことだし、信ぴょう性は高いと思えた。

 そういう王であることが知れ渡っているからこそ、娘に気軽に手を出そうという輩はそうそういない。

 だから、おそらくは、アリスがエマの最初の相手だろうと思えた。


(初めて?)


 思いついた言葉が別の意味を持っている事に気が付き、アリスは誰とでもなく言い訳をする。


(いや、初めてって言っても、キスしかしていないけど――)


 アリスにとっても初めてのキスだったから確かではないけれど、アリスの行動に応えるでもなく拒むでもなく――どうしていいかわからないとでも言うような初々しいエマの反応はたしかにアリスを煽ったのだ。だから歯止めがかからなかったのかもしれない。

 記憶に酔いかけたアリスは、王妃の塔の前に立ったとたん己の置かれた厳しい状況を思い出し、はっと我に返る。


 王妃からの話がなんであるかは、最早どうでもいいことな気がしていた。王妃に内緒で呼び出される、そのことが命の危機そのものなのだから。理解していない王妃が恨めしい。


(いや、でも、王は人格者で知られる賢王だし)


 自分に言い聞かせてみるものの、それは王妃が絡まないことが条件になるとアリスはどこかでしっかり理解しているのだ。

 息苦しさを感じて深呼吸をしたアリスは、ふと何か良い香りを嗅いだ気がして顔を上げる。

 見ると、塔の前の木陰に別の濃厚な空気が流れているようにも思えた。それは気のせいでも何でもない。ルキアがいるから、空気まで色を変えるのだ。

 衛兵が見張りも忘れて木陰を注視しているが、咎める気にもならない。おそらく咎める声さえ聞こえないだろうと思えた。


「おまえも呼ばれたのか?」


 赤い髪をさらりと揺らして近づくルキアに、開口一番問われる。


「君も?」


 だとすると、呼び出しの理由は予想とは外れているのかもしれない。セバスティアンの勘違いかもと胸をなでおろしかけたアリスだが、ルキアは一瞬の躊躇の後、苛立たしげに言った。


「おまえ、エマに手を出したろ」

「は?」


 セバスティアンに続いて、一体何なんだと半笑いになる。だが、


(もしかしてエマはルキアに話したのか?)


 と思い当たると、とたんに怒りに支配されそうになった。


「怖い顔してるけど、あたり?」


 言い逃れを許さない。そんな目をしてルキアは問う。


「エマに聞いたのか?」


 問いかけが肯定になっていると気がついたのは、口に出した後だった。ルキアは切れ長の目を細めると、小さく舌打ちする。そして直後挑発的な目をして問い返した。


「――そうだったらどうする?」

「…………」


 エマが彼に泣きついているのを想像すると頭の何処かが焼ききれそうになる。手を強く握りしめ、理性を保とうと必死になる。


(落ち着け。彼はしばらくエマに会っていないはず。彼女は今、王立学園に連日出向いている。弓の稽古をする暇はない)


 考えてようやく冷静さを取り戻すと、ルキアは苛立たしげにため息をつく。


「おまえが抜け駆けするとは思わなかった」

「抜け駆けって、先にしたのはそっちで」


 非難されてカッとなる。そもそもルキアのせいでこのような状況に陥っているようなものなのだ。もしルキアがこの国に来なければ。あんな風に勝手に舞台に引きずり出して、アリスとエマの関係を壊さなければ。

 振り返っても仕方ないけれども、幸せだった時期を思い出すと恨めしさが湧いても仕方ないと思う。


「何をした? 怒らないから言え」


 ルキアは兄が弟を叱るような口調で問う。それが癇に障る。たった二歳の差で兄貴面が出来るのか? アリスは鼻で笑いたくなるのをこらえた。

 大体、こういう場合、大抵の人間は怒るものだ。それに――


(少しはエマのことで悩めばいいよ)


 狭量な考えだと思いつつも、エマとの時間をあんな風に失った今、とてもじゃないがやめられない。ルキアに余裕がありそうなのがまた腹立たしい――そこまで考えたアリスは、いつの間にかルキアのことを恋敵だとはっきり位置づけていることに気づく。


「僕とエマのことは君には関係ない」


 負け惜しみのように笑ってみる。ちゃんと笑えているかどうかなど、今はどうでも良かった。

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