第12話 甘くやわらかな記憶

 実験部屋の机の上にある鍋の底には飴が焦げついていた。

 ここ数日、何をやっても失敗してしまう。父から頼まれた実験についても予想された結果は出ないし、庭に植えておいた検体も枯らしてしまった。最初から情報データをとり直さねばならないことで、ここ一月分の作業が全部無駄になってしまっている。

 原因などわかりきっている。エマの泣き顔のせいだ。

 エマが泣くのなんていつものことだった。だというのに、彼女が一瞬だけ見せた泣き顔が一時も忘れられない。


「ああそうか、が泣かしたからか……」


 アリスがぽつりとつぶやいた時だった。


「なんだ。泣かしたの? さては鞭の使い方を間違えたのかな」


 楽しげな声が後ろからかかり、アリスは目を見開いて後ろを振り向いた。闇の中に浮かぶ自分とよく似た顔に、アリスは分身の姿を見て肝が冷える。アリスの容貌は父によく似ているのだ。

 父の手にはアリスが枯らしてしまった鬱金の苗がある。彼はそれを地面に置くと、猫のような目でアリスの様子をうかがった。


「なんのことでしょう、父上」


 慌ててごまかしたけれど、父の目元が意味ありげに緩んでいる。彼にごまかしなど通用しない事を思い出して、アリスはすぐに降参した。


「エマと喧嘩しました」

「いつものこと……じゃないみたいだね。あぁ、『女の子の口の塞ぎ方』でも実行してみたのかな」

「ちが――」


 もしかしてくちづけの事だろうか。なぜ知っているのだろうかと耳を赤くすると、父は、


「僕が、おまえが二十を越えても縁談を断り続ける理由に気づかないと思ったかな。あぁ、気づいていないのは当人だけだと思うけど」


 と肩を竦めて笑う。

 周囲から自分がどう見られていたのかを知って、アリスは絶句する。

 父はやれやれと肩を竦めると、アリスの肩に手を載せて、ぽん、ぽんとあやすように叩いた。


「エマ王女は、中身がメイサにそっくりだからねえ。お前が手こずるのなんて当然なんだよ」


 アリスは一瞬ののち、腑に落ちなくて首を傾げた。


「ええと……父親――陛下に似ているの間違いでは?」


 間違いなどというと母から怒られるかもしれないと思いながらも、静かに指摘する。


「そう思っているから間違うんだ。強く見えても、あの子は、ちゃんと女の子だ。乱暴に扱ったら壊れてしまう」


 父の口からはいつものように曖昧な言葉しか告げられない。じゃあどう扱えばいいのか、答えはくれない。

 思わず考えこむと、父は来た時と同じようにふらっと踵を返す。アリスは聞き忘れたことがあると思い出して慌てた。今聞かなければ、聞く機会はもうないかもしれない。


「父上。鞭の使い方って――」


 追いすがるアリスにも父は振り向かずに肩の上で「じゃあね」とでも言うように手を振るだけだ。


(相変わらずつかみどころがない。考える切っ掛けしか与えてくれない人だ……)


 アリスが追い詰められた時に、まるで見ていたかのようにふらっと現れては、意味の分からない言葉を置いて去っていく。飴と鞭の話もしかり。彼の人の子どもへの接し方は昔からずっとそう。答えや具体的なやり方は決して教えてくれないけれど、答えに至るための思考の経路を整えてくれる。

 正解は人の数だけあるんだよ。だから考えることをさぼったらだめだ。そう言われて育ってきた。


「エマが女の子、か」


 そんな事わかっている。わかっていて、ずっと気づかないふりをしていたのだから。

 ずきりと唇の傷が痛んだような気がして、アリスは口を手で覆う。痛みよりも、柔らかく甘い感触がアリスの胸をより深く刺した。



 *



 王立学院の中庭で、エマは木刀をふるっていた。

 ここでは八歳から十八歳までの子どもたちが集められて共に学んでいる。今は授業の合間なのだが、学生たちは次々にエマに木刀で斬りつけてくる。最初は「お姫様に剣を向けるなんて」と遠慮していた彼らも――特に十五歳以上の年長者はだが――、すぐに遠慮などする必要などないことに気づいたらしい。なんとか一本取れないかと工夫しながら必死になってぶつかってきていた。


「王女自ら指導していただけると、いつもやる気のない者も志気が上がるようです」


 休憩のために木陰に移動して椅子に腰掛けると、案内役であるヴェネディクトがエマに微笑みかけた。彼は、体力の限界を理由にエマの剣の師匠を引退した後、ここで剣術の指導を行っているのだ。

 学問だけでなく、武術も教えているのは、文武両道を地で行く父の方針らしい。


 ルキアに痛いところを突かれ、アリスには裏切られた。

 心の傷を埋めるようにと、今まで以上に――半ばむきになるように――勉学にも武術に打ち込んでいたエマに父が命じたのは王立学院の視察だった。ただの視察ではなく、大層な課題を持たされた。それは、問題点と改善案を三つずつ持ち帰ること。


(お父様の作ったものに文句なんかつけられない――問題なんかなかったはずだし……)


 父がアウストラリスの次世代を担う人材を育てようと、十八年前に作った学院だ。国の要になってくる政策だし、視察に行ったことは当然何度もある。

 子どもたちは広い校舎でいきいきと学んでいた。最初に卒業した学生は、既に文官や武官として活躍していると聞く。優秀な人間は着々と育っている。


「問題点、って難しい……」


 考え込んだとたん、次第に鬱々とした気分が心を覆い始める。

 頭を使ったとたんにこれだ。

 ここ数日は夢見も悪く眠ることも難儀していた。体を動かしていると余計なことを考えずに済むのに――と思っていたところ、ヴェネディクトが「子どもたちに剣術を教えてみてはいかがです」と提案してきたのだ。ありがたい提案だった。


「お飲み物です」


 ヴェネディクトに手渡された飲み物を一口飲んで、エマはむせそうになった。水は檸檬の果汁を水で割ったもので、蜂蜜が混ぜてあったのだ。アリスの飴を思い出させる味は、同時に彼のした行為を鮮やかに蘇らせる味でもあった。

 驚くほどに力強い腕、広く硬い胸、柔らかい唇、それから火傷しそうに熱い――


(あああ、これは、無理!)


 怒りと羞恥で頭がゆだりそうになる。爽やかで甘く、美味しいはずなのに、口に含んだ分を飲み込むのが精一杯だった。

 触発され、押さえつけていた鬱屈した想いが次から次へと沸き上がってくる。


(……アリスがあんな卑怯な手を使うなんて思いもしなかった)


 彼だけは最後までエマの味方だと思っていた。だけど、言われてみれば、一番の敵であるのだ。エマを手篭めにして、そう発表してしまえば、伝統的に女子の貞操を重要視するこの国では、エマは彼の伴侶となるしかない。継承の儀式も済んでいない状態で誰かの妻になる――しかも、一方的にされてしまうというのは、エマにとって相当不利となる。

 なんといっても、エマは『力』を武器にこの継承争いを勝ち抜こうとしているのだ。男に力でねじ伏せられたなど、力のない証明をしているようなものだった。


(悔しい)


 しかし、不思議とアリスに対して腹は立たない。じゃあなにが悔しいかというと、力で敵わなかったこともだけれど、どこかで油断してしまっていた己の詰めの甘さだった。アリスなら大丈夫だと、信じ込んでいたのはきっとエマの甘さだ。


(もしお父様だったら、多分誰に対しても油断しないわ。だからこそ、王でいられるのだもの)


 アウストラリスの王は血で血を洗う簒奪を繰り返し、今の穏やかさからは考えられないが、祖父も当時の王を倒して王になった人だった。王位継承者は多く、皆がその座を狙っている。結婚するまではゆっくり眠る事ができなかったのよと、母が漏らしたこともある。

 そういう座を欲しているのだということを一時も忘れてはならないのだ。それはなんて孤独なのだろうとエマは憂鬱になる。憂鬱になってしまう自分の弱さがひたすら辛かった。


(これじゃあ、ルキアの言うとおりだ。覚悟も何もない。おもちゃを欲しがる子どもとなんにも変わらない)


 泣きたくなりながら、エマは立ち上がる。休憩が終わるのを待っていた十二、三歳くらいの少年がギラギラした目でエマに剣を向ける。先ほどあっさり木刀を落としてしまって、悔しがっていた一人だ。負けず嫌いが全身からにじみ出ていて、それは鏡に写った自分のようにも思えた。


(恥ずかしい)


 木刀の切っ先で相手の刃先を容赦なく叩く。


(恥ずかしい!!)


 相手が一歩引いたところ、木刀を振りかぶり――


(恥ずかしい!!!!)


 相手はいつしか幼い自分に成り代わっていた。


(弱いエマは、消えてなくなれ――!)


 頭上から木刀を振り下ろしたエマは腕に強いしびれを感じ、我に返った。


「そこまで! ――姫様!」


 ヴェネディクトの鋭い声に顔を上げる。ヴェネディクトの木刀がエマの木刀を受けて震えている。その向こうでは、少年が怯えた顔でへたり込んでいた。

 周囲からは感嘆の声が上がるが、目の前の少年だけは恐怖を隠せずに青い顔で震えていた。


「ご、ごめんなさい。つい夢中になってしまって」


 一体何をやっているのだろう。情けなくて、消えてなくなりたくなった。

 逃げる場所がない。飴だってもうない。そのことが辛くて仕方なくて、ぐっと唇を噛んだ。


(ああ、私、アリスが居たから、自分が強いって信じていられたんだ)


 彼の前で泣けたから。だから、どんなことがあっても平気だった。傷は彼の笑顔と飴で癒やされたから。

 失ったものの大きさに愕然とする。膝が折れそうになったそのとき、傍で観ていた少女が一人エマに駆け寄ってくる。歳は、八歳になったばかりだろうか。まだ体も小さく、あどけない。


「これ、どうぞ!」


 少女がエマに手渡そうとしたのは、一枚の小さな布。


「こら! 無礼ですよ!」


 慌てて教師が少女を止めるが間に合わない。少女はエマを見上げてにっこり笑った。


「王女さま、悲しそう。こんなに強いのに、どうして? 泣きそうな――負けたみたいなお顔しているの?」


 そんなひどい顔をしてるのだろうか。エマは顔を覆いたくなるが、逃げるみたいで嫌だった。ここで逃げたら、この子を傷つけてしまう。今打ち負かしてしまった少年と同じように。


「私、ね。本当は全然強くないから、悲しいの。もっと、強くならないといけないのにね」


 強く――自分で言った言葉にわずかに気分が浮上する。

 そうだ。弱いなら、強くなればいい。未熟なら、努力すればいい。今度こそ口先だけで飾るのではなく。立派な王になる前に、恥ずかしくない自分でいたいから。

 慌てて笑顔を浮かべて少女の頭を撫でると、少年に手を差し伸べる。恐怖を取り除いてあげないといけない。それはエマの責任だと思ったのだ。


「怖かったでしょう。もう一回勝負してもらえる? 今度はちゃんと手を抜くから」

「――て、手なんか抜かなくったって大丈夫だよ!!」


 手加減されるのは気に食わなかったらしい。負けん気の強そうな少年は立ち上がると、エマに向かって「もう一回、おねがいしまっす!」と頭を下げた。エマはホッとして破顔する。


「次、僕!」「おれだよ!」次々に声が上がり、エマの周りには輪ができる。

「まとめてかかってくる?」


 ニヤリと笑うと、子どもたちが「いいの!?」と好奇心いっぱいの顔になる。


「じゃあ、そうね。危ないからみんな防具を着けて!」


 声をかけると高い空へ向かって歓声が上がる。

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