第9話 究極の選択
何事にも師事する存在というのは、質が大変重要だとエマは思う。父は剣術の資質に優れていたけれど、若いころの師が良かったのはあると未だに言うのだ。本人の才能がいくらあろうとも、師がそれを引き出せるだけのものを持っていないと、ある程度までしか伸びないと。そして逆もしかりだ。師が良ければ、凡人でも才能以上の実力を発揮できる可能性がある。
だから剣の師である父、学問のアリスに加え、弓の師までも手に入れて、これでまた一歩王座に近づいたと、エマは大変機嫌が良かった。
「あとは体術だけなんだけど……あ、それから剣の練習相手が欲しいわ。お父様はお忙しくてあまり付き合ってくださらないし……あ、ねえ、ルキアはどう?」
人が三人ほど横になれるくらいの広さの倉庫には、訓練用の弓を始め矢や
エマは道具の手入れくらい人にさせるな自分でしろとルキアに言われ、自分の矢の羽を整えていた。彼も自分の弓の弦に脂を塗り込んでいる。いつも自分でやっているのだろう。手慣れたものだ。
「さすがにそこまでは付き合いきれん。っていうか――おまえってホント欲張りだな」
呆れられてエマは頬を膨らませる。
「末っ子っていうのはね、欲張らないとなにも手にはいらないようにできてるの。欲張らないと生存競争を生き抜けないの。だから多少わがままでもしょうがないのよ」
そう言うと長子である彼は不機嫌そうに眉を寄せた。そんな顔さえ美しいと見惚れそうになる。
「末っ子って、一人っ子のくせに」
「一人っ子は長子でもあるし、末子でもあるのよ」
「あぁ、だからこんなふうにわがままで怖いもの知らずになっちまったってわけか」
ルキアが楽しげにからかう。頬をさらに膨らましながらも、こんなふうにくつろげる相手は今までに居なかった気がして、エマはのびのびとした気分を楽しんでいた。
勢力争いを気にせずに気軽に遊べる相手というのは、今まで周りに居なかった。だからルキアとの弓の練習は酷く楽しかった。――だが。
(もう、一体何なのかしら)
ここにはアリスが居ないのだ。手の肉刺が痛むと言って練習に参加していない。肉刺が潰れてその上からまた肉刺ができて、そうやって手の皮は厚くなる。そこを乗り越えないと上達しないと訴えたけれど、梨の礫だ。
(アリスだって人並みに剣を嗜むし……だからわかっているはずなんだけど)
エマにとって気のおけない人間の一人であるアリス。何かと口うるさいけれど、こうして姿が見えないと気にしてしまう。そしてここ数日彼の作った飴を食べていないことを思い出し、心の中を冷たい風が通り抜けた気がした。
エマが泣かないと彼は飴をくれない。ルキアを師として弓を引いた数日は楽しすぎて泣く間もなかったから、アリスの元を訪ねもしていない。だが、それでも王宮内で全く会わないのはおかしいのだ。
(……避けられてる? まさか)
ため息を吐いてふと見上げると、目の前にはルキアの顔があり、様子を窺うようにエマを見ている。元々エマの周りにはアリスをはじめ見目麗しい青年が多いが、この美しさは群を抜いている。
母の美貌とは別方向だが、張り合えるかそれ以上だ。その壮絶に整った彼の顔が手を伸ばせば届くところにある。しかも、よく考えると、彼はいつもエマのすぐ後ろで彼女の矢の先がきちんと的を狙えているかどうか確認してくれていた。――息が触れるほどの近くで。
急に意識したエマは思わず目を逸らす。
「珍しいな」
ルキアがポツリとこぼす。
「おれから目を逸らさない女って、あんまり居ないんだ。っていうか、母と妹くらい? 今の今まで、逸らさなかったのに……どうして?」
覗きこまれたエマはその瞳に釘付けになりそうになる。明かり採りの小さな窓から夕日が差し込んでいる。それに照らされて赤い髪がさらに輝く。大地の色の瞳は色を深めている。それは父のものとも同じだけれど、父に見つめられても嬉しくはあれど、ここまで動揺はしないと思った。
ざわざわと胸が騒ぐ。これは一体なんなのだ。エマは今すぐにここから逃げ出したいような気分になる。
(ああ、アリスの飴が食べたい。蜜を固めただけの、あの思いきり甘い飴)
そう思いつくと、今すぐにも駆けつけたくなる。甘い飴を口に含んで、安心したくなる。
エマが一歩後ずさりすると、ルキアがその分の距離を詰めるようにして一歩踏み出す。もう一歩と後ずさると、狭い倉庫の中だ。背に壁が触れた。追い詰められて、エマはルキアを見上げる。深い深い色の瞳がエマを甘く見下ろしている。
「おれの父上ってさ。母上が唯一自分の目を見て話してくれるからっていう理由で惚れたんだ。なんて簡単な理由だって思ってたけど、案外そういうことはあるのかもしれないな」
(それはどういう意味なの)
エマは考えようとしたが、頭の芯が焼き切れたようになって、考えられない。この目は考えることを許さない。
そんなエマにルキアは「さ、練習だ。残り十本で上がって、飯だ」と魅惑的な微笑みを浮かべる。砂糖を煮詰めたような眼差しにとどめを刺されたエマは、逃げるように射場に出ようと扉に手をかけた。だが、
「え?」
倉庫の引き戸が開かず、エマは首を傾げる。
何かの間違いだろうと、もう一度ガタガタと揺するが、扉は耳障りな音を立てるだけで開かない。
エマは鍵を探る。指先に硬い感触。確かにここにあるのにどうして。
それに誰も射場には居なかったはずなのに、だれが。どうして。
「なんで?」
エマが扉との格闘をやめて顎に手を当て考えこむと、後ろからやってきたルキアが扉を確かめる。
「もう戸締まりの時間か?」
ガタガタと揺すって外そうとしたが、扉の意外な頑丈さに途中で諦めた。一応武器庫ではあるから、当然といえば当然なのだけれど。
「戸締まりまで任せてもらってるし……誰も居なかったでしょ。大体、一声かけるはずでしょ」
苛立ったエマは少しだけ扉から距離を取ると扉に体当たりをした――が、すんでのところで止められた。
「馬鹿か。切羽詰まってもないのに簡単に怪我をしようとするな。っていうか、そういうの男の役目だろうが」
呆れたように見下ろされる。文句を言おうとしたエマだが、ふと自分の体がルキアの腕の中に収まっていることに気づいて何も言えなくなった。
「誰かいないか。誰か」
ルキアがエマを離すと外に向かって声を上げる。その声がやはり父にそっくりで、エマの胸はどくりと脈打った。そして篭った声に狭い室内に二人きりだと意識して、急激に息が苦しくなる。
「だめだ。誰もいない。兵の訓練は朝一か?」
エマは黙ったまま頷く。ルキアがいる間は夕刻以降の射場を貸し切りにさせてもらっているのだ。エマはそのことを悔やむ。だが、
「ま、見回りに誰か来るだろう」
ルキアは呑気に言うとその場に胡座をかく。
「え? 開けてくれないの?」
「誰か来てくれたら開けてくれるんだし。わざわざ痛い思いをして壊す必要もないと思うけど」
エマに向かって男の役目だといったくせに、扉を打ち破ってはくれないようだ。
「出れなくていいの。こんな狭いところ」
そわそわと落ち着きをなくすエマに、ルキアは下から見上げてニヤリと笑う。
「別に。エマはなんでそんなに必死?」
「だ、だって」
暗くて狭いところに二人きり――。しかし、意識していることを悟られたくなくて、エマは押し黙る。だが、ルキアはエマが逃げるのを許さない。
「つまり、意識してる? おれのこと」
答えられるわけないじゃない! エマはあまりに直接的な問いに目を見開く。
「ち、ちがうわよっ」
「でも、おれの目が見れない」
「それは、その、ただ、あなたの顔とか、声とかが、お父様に似てるからっ――」
そう言った瞬間だった。ルキアの目の中に暗い影が走った。からっと晴れていた空に暗雲が立ち込めるような変化だった。あまりの表情の変化に、エマはなにがまずかったのだろうと己の言葉を省みるが、父に似ているという言葉のどこがまずかったのかどうしてもわからない。
「ど、どうした、の? なにかまずいこと言った?」
「おれと陛下はそんなに似てるか?」
あまりに深刻な顔をするのでエマは答えに窮した。
「え、あ、あの……それは甥っ子なんだから似てて、当たり前よね?」
するとルキアはうんざりと髪をかきあげる。
「おまえって、なにも知らされてないんだな」
「なにもって、何を?」
それっきりルキアは黙りこむ。
明かり採りの窓から差し込んでいた光がとうとう消えた。夕闇に二人の姿が黒く染められ、エマは寒気を感じた。
突っ込んで聞いていいのだろうか。エマは悩む。そして悩んだ末にそっとルキアの隣にしゃがみ込む。話したいのなら話すだろう。待つことにしたのだ。
明かり取りの窓からは赤光が差し込みだした。しんとした倉庫は、端から広がる薄闇に沈んでいく。
「なあ」
やがてルキアが口を開いた時、そこからこぼれた言葉はエマの予想とは全く違うものだった。
「おまえってさ、なんで王になりたいの」
「は?」
エマは拍子抜けする。
「王ってそんなに魅力的な仕事だとは思えないけど? 自由はないし、責任ばかり重いのに、見返りは少ない」
挑発的な言葉に、エマは反射のように答えた。
「魅力的かどうかは関係ないの。お父様が富ませた国を廃らせたくないから私がやるの。っていうか、なんで、皇太子のあなたがそんなこと言うの。あなたはこれから国を背負っていかないといけないのでしょう。もしそんなふうにたわけたこと思っているんなら、魅力的だと思える努力をしなさいよ」
ムカムカと腹が立つ。エマが必死で手に入れようとしている立場を、長子だからという理由でなんの苦もなく手に入れているというのに、なぜこの男はありがたく思わないのか。
「けど、アウストラリスにはアリスがいるだろ。あいつはいい王になる。そんなことわかってるはずなのになんでわざわざ割り込む」
「なにが言いたいの」
エマは闇の中でも魅惑的に光る彼の目をじっと睨んだ。
「女には女の役目があるんじゃないのかって言ってる。男と争って無理して王になっても、女の王に誰が付いていく? 一人で
「じゃあ、あなたは私が誰かの妃になって、母様みたいに子供を産んで育てればいいって言ってるの」
それは、誰もがエマに求める役目。母メイサのように、子を産み育て、父王を支えて、政には口を出さない。
国の者と同じ要求をつきつけられてエマはルキアに幻滅した。だが、ルキアはエマの蔑みを気にもせず、まっすぐに彼女を見つめてくる。
「今のままならそのほうがいいかもな」
「今のまま?」
「おまえが今のままなら、この国のためには、おれの妃になるか、アリスの妃になるかしたほうが絶対いい」
「は?」
考えもしなかった未来にエマは頭が真っ白になる。いや、ルキアとの恋は少しだけ意識した。だが、妃とかそういう現実的な未来までは見ていなかった。エマは女王になることしか頭になかった。だから、妃という選択肢は最初から捨てていたのだ。
「私が? ルキアの? ……アリスの?」
ルキアは壁に凭れていた体を起こすと、呆然とするエマの顔の隣に手を突きゆっくりと肘を曲げる。思わず彼の腕を掴んで引き離そうとしたが、手のひらに彼の引き締まった体温の高い肌を感じてしまって、頭が熱で使い物にならなくなるのを感じた。
耳も遠くなってくる。そんなエマを、ルキアは前髪が触れるほどの距離で見つめてくる。
ルキアの目の中に、エマが心細そうに映っている。それは闇に怯える少女のようだ。
彼はふとエマから視線を逸らすと、扉をじっと見つめた。小さく息を吐く。そして、
『じゃあ、父親と、父親が大事にしている国、どちらかを選ばなければならなかったら――』
そう小さく耳元で囁いた彼は、胸を一突きされたエマに向かって、さらに凶器のような笑顔を向けた。そして父と同じ、心に沁みるような重みのある声で問う。
「――おまえはどっちを選ぶ?」
「両方よ」
とっさにアリスとやった問答が頭をよぎる。王者としての正解だとアリスが言った答。だがルキアは核心を突いてきた。
「彼を、愛しているんだろう?」
胸の奥に隠しておいた動機に触れられて、ぎょっとした。曖昧な訊き方をしたが、彼は気づいている。エマが王になりたい本当の理由。父に認められたい。自分を見て欲しい。ただそれだけの理由で王になりたいと言っている幼いエマを、ルキアは知っている。
「――当然愛してるわよ。だけど、ただの家族愛だもの」
エマは辛うじて表面上の問いにだけ答えたが、反論は弱々しいく響いた。ルキアの問いが胸に深く刺さって、己の浅ましさを見せつけられ、言葉がまるで力を持たなかった。
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